近畿一円に住み着いていたといわれる秦氏、応神天皇の5世紀前半には北部九州である筑紫の東側に秦王国があった。応神天皇の14年に弓月君なるものが百済から120の県(こおり)の人たちを率いてやってきた。弓月君が秦氏であったという。秦氏は金属冶金や流通にかかわり、猿楽、くぐつなどの芸能、八幡信仰、稲荷信仰、修験道、白山信仰、聖徳太子信仰などに関わった。東漢(やまとのあや)氏も秦氏と類似している。応神天皇20年に阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が17の県のひとびとを引き連れて日本列島にやってきた。東漢氏は大和盆地に勢力を持ち、7世紀には蘇我氏に近侍、平安時代には坂上田村麻呂を輩出した。この他の渡来系は吉備にも住み着いていた。弥生時代の渡来人は農地を求めて渡来してきたのだが、出雲神話に記述されたスサノオの姿は応神天皇時代に木材という燃料不足に悩んでいた朝鮮半島から渡来してきた渡来人の姿に重なっているという。この応神天皇時代がヤマトたる邪馬台国建国前後だったと筆者はいう。秦氏や東漢氏は鉄の技術を持ち込み、ヤマト建国に重要な役割を果たしたのではないかと推測しているのだ。
古事記、日本書紀にはヤマト朝廷は神武天皇を始祖とするとされるが、第十代崇神天皇が初代天皇だったとする。それ以前の天皇には崩年干支が記されていないというのが根拠。崇神はヤマトの先王朝を引き継ぐ形で新王朝を樹立、ハツクニシラス天皇と記述されている。第14代仲哀天皇は九州南部のクマソと戦い、その最中に急死したとされるが、クマソは魏志倭人伝でいう狗奴国だというのは水野祐氏、狗奴国の応神天皇は仲哀天皇を打ち破り、その子仁徳天皇が瀬戸内海を東に向かってヤマトを征服し中王朝を樹立し、その後北陸からきた継体天皇の時代まで続いたという。騎馬民族説の江上波夫や上田正昭、井上光貞などもこのような王朝交代説を唱えているが、筆者はこれを否定する。前方後円墳の広がりをみると、強い王家が3世紀のヤマトを征服したというよりも文化の継承が広く行われていたとみるからである。
さて、アメノヒボコ、ホコというのは矛、槍、鉾という武器や金属冶金に関わりがあったことを示すという。アメノヒボコの末裔にはスク、スガ、スカ、カマという名前が散見されこれらも鉄とのつながりを示すという。これは気比神社に来日したというツヌガアラシトと重なる。敦賀の地名は角鹿(つのが)から来ており、垂仁天皇の2年、崇神の息子の時代である。ツノガアラシトは金官伽耶の王子、日本に3年ほどいた後に朝鮮に帰り、再び日本列島に帰ってきたという人物。アメノヒボコは播磨の国に到着、垂仁天皇はアメノヒボコから8つの献上品を受け取り、播磨と淡路島の一部を領地として与えようとしたが、アメノヒボコはこれを断り、自分で最適な場所を探したいと申し出た。アメノヒボコハ宇治川から琵琶湖を経て若狭の国にでて西方の但馬の国にいたり、但馬の出石に住み着いたという。筆者はツノガノアラシトとアメノヒボコが同一人物ではないかと推測する。
日本書紀は百済には好意的、新羅を敵視していた。663年白村江の戦いで百済・倭連合軍は新羅・唐に敗れたため百済は滅亡、ヤマト朝廷は東アジアで孤立して滅亡の危機でもあったという。その憎き新羅から来たアメノヒボコに天日槍という立派な神の名前を与えたのであろうか。通説ではアメノヒボコは架空の人物というもの、しかしアメノヒボコから神功皇后は古事記に記述され日本書紀が無視したお話、作為が感じられるというのである。神功皇后とアメノヒボコは多くの接点を持っているというのだ。両者の伝説の地はほぼ重なり辿った経路もシラギ、カシヒ、ウサ、ハリマ、アハチ、ナニハ、ウジ、セタ、ツルガ、イズシ、イツモ、アナト、ウミ、ワニツという経路、これは朝鮮半島から北九州を通り、瀬戸内海から宇治川づたいに琵琶湖に入り、若狭から但馬、出雲、穴門、北九州そして朝鮮半島というほぼ同一の経路である。
武内宿禰は古代史では存在しないとされているが、孝元天皇の孫とされている。ヤマトタケルの父、景行天皇から成務、仲哀、応神、仁徳の各天皇に仕え、295歳まで生きたとされる。古事記には波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、葛城氏、紀氏の祖になったとされる。武内宿禰が活躍するのは神功皇后時代、仲哀天皇のクマソ征伐に付き添い、応神天皇とも行動をともにした。老翁の武内宿禰と童子の応神天皇という組み合わせは西日本には各地に像や絵で見いだされる。そして神武東征と応神天皇の行動はそっくりなのである。そして山幸彦を海神の宮に誘った住吉大神の塩土老翁と武内宿禰を彷彿とさせるという。そして応神天皇はアメノヒボコと名前を交換した、という記述があり、応神天皇は北部九州を制圧して船団をくんでヤマトを制圧した、つまり、アメノヒボコがヤマトを制圧したのではないかと推測する。藤原不比等の父中臣鎌足は人質として来日していた百済王子、豊璋ではなかったかと筆者は推測、ヤマト王朝の先祖が新羅であっては不都合な不比等はそれを隠すために日本書紀の記述を変えてしまったというのである。
推測が多く、客観性はどこまであるのかがわかりにくいのだが、読み物としては面白く、別の人たちの反論も聞いてみたいものだと思わせる。蘇我氏、物部氏などについても知りたくなる。
海峡を往還する神々 (PHP文庫)
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