日本は古来より、神道の教えである「一切の生きとし生けるものは死ねば霊は天に往き神となる」という考えが人々に浸透しており、浄土宗の極楽浄土の教えは受容されやすかった。その後、円仁は浄土宗を広め、日本にこの教えを定着させたのは源信恵心僧都、「往生要集」では「南無阿弥陀仏」の口誦念仏は極楽浄土への往生を約束した。この教えは、その後の永観、法然により日本中に広まった。法然は「専修念仏」を唱え、69歳の時に弟子に親鸞を迎えた。その時1201年親鸞は29歳、そして親鸞が68歳の時に弟子入りしたのが「歎異抄」を書いた唯円1240年19歳であった。親鸞の妻は恵信尼、娘が覚信尼、その夫が禅念でその息子が唯善、そして禅念の連れ子が唯円であった。親鸞は聖徳太子を熱烈に信じていたが、聖徳太子の化身が六角堂の救世観音となり夢に現れ、「女犯するともわれ王女の身となって犯されん」という夢告を聞いたとして、妻帯を行った。
後鳥羽上皇は1207年、法然、親鸞らを流罪とし、法然は藤井元彦とされ、親鸞は藤井善信と名付けられ越後の地に飛ばされた。親鸞は名前を愚禿親鸞と呼び変え、その後常陸の地で教えを広め、その後京都のちを最後の死に場所とした。歎異抄はこうした親鸞の置かれた環境を色濃く反映した内容であり、宗教的にはパラドックスに飛んだ内容であるため、ながくその内容は明らかにされていなかった。唯円は弟子として、誤解されやすい教えをあえて書き物として残すため歎異抄をまとめた。
<第一条>ただただ念仏すれば他に善をなす必要なし。念仏以外に難しい理論は不要とした。
<第三条>善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な一節。強烈な宗教パラドックスである。
<第九条>念仏していても楽しくない、しかし喜ばないからこそ極楽往生は間違いないのだ、という絶対的楽観主義。
<第五条>父母の追善供養のための念仏はしない。因果の理で生きとし生けるものすべてが父母である。極楽浄土に自分が行けば、父母が迷っていても救い出せる。「般若心経」では「心の執着を棄てて無になり、自由になれ」としているが、家族や国家を超える普遍性を持つのが専修念仏の考えである。
<第六条>師弟の関係は浄土宗の教えでは無意味である。阿弥陀への信心があるのみ、師は阿弥陀であるはずl法然や親鸞の教えの流れをくむ本流は誰だなどという議論は意味が無いのである。
<第二条>常陸の地方での弟子たちが京都にいる親鸞に問いかけた。「誰の教えが正しいのか」親鸞は答えた。「念仏して極楽往生する以外に私は道を知らない。それ以外の道を知りたければ南都北稜に立派な学者がいるのでそこで学べばいい。法然を信じて念仏をして、地獄に落ちても後悔はしない」
<第十三条>悪を恐れないのは「本願ぼこり」というが、それでも往生はできる。源平の戦乱から鎌倉にかけての日本人は頼るべきよすを見失っていた。口誦念仏が人々を救ったのである。
梅原猛の『歎異抄』入門 (PHP新書)
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