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意思による楽観のための読書日記

中世倭人伝 村井章介 *****

あとがきで著者自身が「なじみの薄い話題の本を最後まで読んでいただき感謝します」と書いているのだが、こんな面白い本を読んだのは久しぶりと言いたい。というのも、魏志倭人伝で語られていた倭人たちはその後どうなったのかを考えたことがなかったことに気付かされたから。本書を読んで、ずっとあと、16世紀までしっかりと生き残ってしたたかに生き抜いていたことが確認できた、と思う。

魏志倭人伝に語られる倭人とは西暦で言えば三世紀はじめころの北部九州に暮らしていた人たちの風俗と暮らしぶり。対馬には1000戸ほどあり、良田は少なく海のものを食し、船に乗って南北を交易している。壱岐には3000ばかりの家があり、少しの田地はあるが食うには足りないのでやはり交易で暮らしを立てる。北九州の末羅(松浦)では4000戸ほどが暮らす山漁村で、海に潜って魚や鮑などを獲っている。大陸の人たちにとっては狗邪韓国から邪馬臺国までの一帯が倭人が暮らす場所であり、その状況は15-16世紀まで変わらなかった。

14世紀に成立した李朝朝鮮の記録では「倭人」「倭賊」「倭種」「倭奴」「倭」などと呼ぶ人たちが多く登場する。その活動範囲は朝鮮半島南部から対馬、壱岐、済州島、北九州、中国江南の沿海地方などの海域で、なかには朝鮮人や中国人も混在していた。本書で取り上げるのは、この李氏朝鮮からみた厄介な存在の倭人たちの活動である。というのも、国を繁栄させるための交易は重要だが、できたばかりの国家の統制は重要であり、徴税や法的規制をしっかりと施行させたいので、交易による売上把握や国内法制の徹底を図りたい。しかし外国人である倭人たちには統制は及ばない。相手国は足利氏の政権で、義満が将軍だが、天皇もいて、どちらが国を代表するのかも分かりにくいので苦労している。

そもそも「倭人」たちは、交易のために朝鮮語も話すことができて、場合によっては朝鮮の服装をしていることがあり、脱税や犯罪行為をしても、彼らがどこの国家に属するのかがよく分からないのである。朝鮮人たちの中には倭人と組んでうまい汁を吸う人たちもいたりして、手に負えない。しかしどうも対馬の人たちが交易の主体のようであり、対馬島主の宗氏に対して取締の要請を行うことで対応するが、宗氏も変幻自在に立場を変えたりするので扱いにくい。

日本国の代表なら丁重に扱う必要があるかもしれないが、対馬島主の一存で何かを主張しているとしたら注意が必要。しかし、どうも宗氏は日本国王の印鑑を預かっているらしいこともあとで分かる。義満からすれば李氏朝鮮は相手にすると言うよりも大国明への通過点なので無視はできない、という位置づけ。義満は征夷将軍を名乗って、「将臣とは意思交換ができない」と明に相手にされなかった経験を持っているので、高麗使とは絶海中津に相手をさせている。明も倭寇には手を焼いているので、倭寇禁圧を条件に、義満に日本国王としての入貢を求めてもいた。つまり足利政権としても倭寇鎮圧は国家意思となっていた。

倭寇が始まったのは1350年、朝鮮半島南部の慶尚道襲撃の記録がある。明と朝鮮、明と足利政権はそれぞれ冊封関係にあり、倭寇鎮圧は三つのいずれの国家としても鎮圧対象であった。しかし、足利政権の統制は対馬まではなかなか及ばない。宗氏としては、足利政権の言うことも聞くが、密交易による利益も得たい。李氏朝鮮としては島主を信頼したいが、どうも全面的には信用できそうもない。

そういう状況のなかで、李氏朝鮮としては交易を進めながら統制もかけるため、倭人が朝鮮半島で活動をする港を限定する目的で、15世紀には慶尚道に塩浦(エンポ)、釜山浦(プサンポ)、乃而浦(ネイポ)という三つの場所を設けた。これらを合わせて三浦(サンポ)と呼んだ。三浦には港に倭人が駐留し、定住する家まで設け、朝鮮人と結婚し子を設け、家族を住まわす者も出てくる。1444年には今までは認められなかった漁業権も獲得する。1494年には三浦合わせて、525戸、3105人が暮らす規模となる。

交易は進むが、時として襲撃犯ともなる倭人の進出に危機感を覚えた李朝朝鮮政府は、1508年、倭人への活動規制を掛け始める。これに抵抗する倭人勢力に、応援する宗氏と李朝朝鮮との全面戦争となり倭人勢力は敗北、三浦にいた倭人勢力は壊滅、これを三浦倭乱と呼ぶ。これ以降、宗氏からの通行は厳しく制限され、1512年に壬申約条で断交解消されるまで倭人は南朝鮮から一掃された。「日本国使臣」を名乗る李朝朝鮮訪問団は三浦倭乱以前は7年に一度だったのが、1511年以降1591年までで25回訪朝。しかしこれを仕立てたのは、その殆どが日本国王印を持っていた宗氏だった。

三浦倭乱後の日本側からみた交易の目的は、当時日本では生産されていない綿布輸入だった。戦国時代に暖を取れる綿布需要が高まったためである。一方、日本からの輸出は銅、そして銀であった。1542年ころに、朝鮮半島から銀精錬の灰吹き法が伝わり、その後銀輸出が急増している。これは宗氏というより日本全国的な需要の高まりであり、一方ソウルに拠点を置く「京商」と呼ばれた朝鮮側の商人たちにとって、ヨーロッパ各国との交易に有用な銀の入手は必要不可欠な要請でもあった。これらの交易は、その中心が対馬拠点の倭人から、中国江南沿海、北九州、そして朝鮮半島南部にまたがる地域に住む住人たち、つまり以前は「倭人」と呼ばれた人たちが活動領域を広げた人たちが主人公だった。李朝朝鮮からみれば、訴える相手が明確ではない。つまり交易の範囲が広がったため、国家による統制が効かない状況になっていたのである。

こうした状況で、1592年秀吉は朝鮮に兵を送り秀吉の死により引き上げるまで半島を蹂躙する。中国大陸では1616年ヌルハチを首領とする統一された女真族が後金を建て、明に宣戦布告。1619年に戦闘に勝利、その勢いをもって1627年、36年には朝鮮半島に侵入。1644年には明が滅びて清となる。その後、朝鮮、日本ともに対外交通、貿易を制限し、倭人たちの活動領域は消滅した。本書内容は以上。

なんとも、李氏朝鮮から見ると、こうした倭人の活動は目に余ったに違いない。「倭寇」は歴史の時間で学んだはずだが、魏志倭人伝からの視点、李氏朝鮮と明からの視点が足りなかった。そもそも、北部九州で漁撈を行う人々は、弥生人たちが列島に来る前からの住民、いわゆる「縄文人」の末裔であり、大和政権以降も、中央からの徴税や国家統制から逃れていた人たちでもある可能性がある。11世紀に女真族と見られる襲撃に北九州地方が被害にあったのに、京の中央政府たる貴族たちは自分のことと考えず、対応しないまま時間が経過したことがあった。「刀伊の入寇」では対馬、壱岐の人たちは大変な被害にあったはずなのになぜ対応しない、と思ったものだが、藤原貴族にとって見れば、統制が効かない辺境の出来事、もしくは自分たちとは異なる人達同士の戦い、と映ったのかもしれない。いずれにしても、中世史、朝鮮関係史という視点から興味深い一冊。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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