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意思による楽観のための読書日記

枢密院議長の日記 佐野眞一 ****

明治大正昭和の時代に東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官、貴族院勅選議員を経て枢密院議長を勤めた倉富勇三郎の日記を取りまとめたドキュメンタリー、ノンフィクション作家佐野真一による大作。日記は大正8年1月より昭和19年12月までの26年分。枢密院は明治憲法発布時に、天皇と議会、内閣の間に立ち、憲法や憲法付属の法令、緊急勅令、条約等について天皇の諮問に応ずる機関とされた。伊藤博文や山縣有朋、黒田清隆などが議長を務め、維新後議会を設置するに当たって、薩長の元勲が、天皇の意思をもって議会や政党の暴走を抑制する目的で設置されたものと思われる。本書の倉富勇三郎が議長時代は政党政治の時代、天皇、軍部、議会の間に立とうとしていたことが伺われるが、満州事変以降は軍部の力に圧倒されたことが読み取れる。

倉富勇三郎は司法畑の出身で、謹厳実直を絵に書いたような人物。日記は身の回りで起きた事実を細々と記述、同時代日記では有名な原敬、西園寺公望や牧野伸顕日記には書かれていない貴重な情報が含まれたが、悪字、長文・詳細にすぎることから今までは解読がされていなかった。形骸化されていたとはいえ枢密院議長は要職であり、書かれた情報には皇室、皇族を始め当時の有力政治家、財界人が登場するため、その時どきの重要情報が含まれる。

昭和天皇の婚約にまつわる噂話が事件となる「宮中某重大事件」は、大正天皇の病質から、次世代天皇に不安が高まっていた世相を映す。婚約者にはその親族に色弱者があるという内容で、結果は大山鳴動して鼠一匹。しかし枢密院にとって次期天皇の将来に向けた一大事と、情報収集に奔走している。大正天皇は即位後数年して、正常に議会での開会宣言すら困難という状況になっており、倉富にとってもどの情報が正しいのかを確かめる努力がある。昭和天皇は海外留学を経験、側室の設置はしないことが明確なため、しっかりとした皇太子を為せるかどうかは国家の一大事であった。明治天皇には正室、側室にも子が生まれず、大正天皇は女官として宮中に上がっていた柳原愛子との間に生まれた経緯があった。その明治天皇も、子がない孝明天皇と側室として宮中にいた中山慶子との間にできた子。皇太子のお相手をどなたとするかは、天皇制維持のために最重要事項である。

日韓併合に伴い、朝鮮王族を皇族に含めることが決められたが、そのポジションをどのように位置づけるかは、既存皇族の間でも非常にセンシティブな問題だった。ここでも倉富は関係者の調整や情報収集に奔走する。その後、有名になる「柳原白蓮騒動」では、白蓮が大正天皇の実母である柳原愛子の姪であり、その父が柳原義光で貴族院議員であり爵位を持った人物だったため騒ぎになった。司法畑が長かった倉富は手続き論、建前論を重視。爵位や大臣職について独自の主張を展開する。

ロンドン軍縮会議における条約締結では、対英米7割を譲らない海軍と国際協調を重視する政党との間で対立が起きる。世論は海軍支持と国際協調に二分されるが、本件から立ち上がる統帥権干犯問題が太平洋戦争突入に向けた前奏曲となる。倉富は国際協調よりは国家の威信を大切に考えた。枢密院議長としてできることをしようとするが、その時は西園寺公望と政党サイドに押し切られる。

こうした当事者情報を直に記述する日記は貴重な情報源であり、解読した筆者は大変な仕事を成し遂げたと思う。本書内容は以上。貴重な大正昭和の時代を映す史料である。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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