筆者は民間自動車メーカーに勤めていた技術者である。退職後に記紀研究に目覚め、考古学的古代史観に違和感を覚えたため、技術論から見た日本列島古代史について考察してみたのが本書である。二部構成になっており、第一部では技術的側面から、紀元前後の交通網を中心に鉄器製造がそれらをどのように変化させたのかを考察。列島における豪族分布などを推察する。第二部では、第一部での仮説をベースに邪馬台国、古墳、大和政権発祥、神武東征から崇神、応神、雄略、継体、欽明の時代についての推論を述べている。読んでみた結論から言えば、第一部の交通インフラ考察は興味深く、第二部にはまだまだ検証と追加研究が必要ということ。それでも、鉄製品が不足する時代の船製造の考察、その時代の船隊行軍の限界についての推論は秀逸だと考える。本論は長野正孝の「古代史の謎は海路で解ける」と同一線上にあると思われる。以下、筆者による本書内容のまとめである。
第一部、古代の日本は、四、五世紀頃に鉄の供給量が飛躍的に増え、その前後で様相がガラリと変わった。それ以前の列島は、自然の障壁を突破する海路・陸路の交通インフラは貧弱だった。文化・宗教・技術などは自然の障壁を乗り越えて伝播したが、政治勢力の統合や連合は不可能で、各地域の豪族たちは独立的に存在した。交通インフラの面から見て、四、五世紀以前に列島全体を代表する政治権力は存在し得なかった。
鉄製工具は紀元前後から使用されるようになるが、軍事や産業効率化に向けられるだけの供給は不十分で、当初は威信財として重用された。鉄の鍛造は四世紀頃から盛んになり供給量が増大、武器・道具・工具・農機具などが大量供給され、農耕の進歩・土木工事の大規模化・準構造船の登場につながった。古代の産業革命である。陸路・海路の開発が進み、地域国家間の接触空間が広がったことで政治勢力の統合が進んだ。鉄製品の大量供給が始まる六世紀以降に、準構造船の量産が始まり、大船団航行が可能となった。また、各地域で高水準の道路が建設されるようになった。地域国家間や朝鮮半島との間で大規模交易が行われ、本格的な軍隊の派遣も可能となり、列島レベルでの政治勢力の統合が加速することになる。
四、五世紀頃までは、日本海側が海外からの先進文化を享受した。日本海側に点在する入り江を利用した東西交易が可能で、日本海沿岸こそが政治経済のメインフィールドであった。潮の流れが早く暗礁も多い瀬戸内海航路が機能するのは、五世紀後半以降で、準構造船による航行が可能になった以降。六世紀以降は大規模集団移動が可能になり、瀬戸内海は日本海沿岸ルートに代わって古代最大の交通ルートとなった。国家が成り立つには、中央の指示が地方に遅滞なく届き、フィードバックが適切になされること、中央と地方の官僚が速やかに移動できること、危急の時に軍隊を急派できること、交易が活発に行われ経済基盤が強化されること等が必要条件である。 それらを可能にするのは、人・もの・情報のネットワークの整備充実である。交通インフラが整う六、七世紀にかけて日本の統一はゆっくりと進んだと想定できる。
第二部ではヤマト王権が好戦的だったとしても全国支配には相当な時間がかかったとする。三世紀前半に、おそらくは磐余で発祥した集団が纏向に移動してヤマト国の原形をつくり上げた。交通インフラ未整備により、当時九州北部に存在したといわれる邪馬台国からは政治的影響を受けていない。三世紀後半には、大和盆地東南部の中小豪族層を束ねた崇神が登場し、ヤマト国の基盤を盤石にした。さらに三世紀末には物部氏、四世紀初頭には春日氏(和珥氏)と同盟関係を結び、四世紀半ば以降に南山城・近江付近まで勢力を拡大した。早い時期から丹後と交流のあったヤマト国は、山陰ルートで西進して、出雲西部を籠絡し、四世紀半ば以降には宗像に拠点を設けた。宗像の拠点化は、朝鮮との交易に向け大きな戦力となった。
五世紀末までには、ヤマト王権内にありながらも対抗勢力であった葛城国を弱体化させた。これによりヤマト国は名実ともにヤマト王権という性格に転じたのである。 百済を重視した王権は、新羅の影響が強い山陰ルートとは別に瀬戸内海ルートの開拓に全力を挙げ、実現させた。 六世紀の頃の王権を支えたのは物部・大伴、やや遅れて蘇我氏であった。
吉備を弱体化させ、筑紫磐井を退け、七世紀には越中から越後までの日本海側、毛野などの関東、最終的に出雲を取り込んで、関東北部から九州中部までの広域支配を完了した。大和政権の誕生である。前方後円墳祭祀で短期間のうちに広域を軍事的政治的に支配したという「前方後円墳体制説」は、当時の交通インフラの脆弱性から可能性が低い。好戦的なヤマト王権によって地方はその後時間をかけて制圧されたと考える。一方、技術や文化は瞬時に伝播する。遠く離れた地域で似かよった文化や文物、技術が見られるのはこうした事情による。しかし権力の統合はそれとは異なり、交通インフラの進歩・充実が大きな役割を担っていた。ヤマト王権は先進文物の導入についても、当初は日本海ルートで朝鮮半島にアプローチしたが、その後、瀬戸内海ルートを開拓して大きく飛躍した。 政治権力の統合は、自然の障壁を突破する技術力、経済力、軍事力の増大に比例して「力による論理」で進行したのである。本書内容は以上。
神武東征や神功皇后による三韓征伐などは、当時の造船技術からみて作り話であり、斉明時代のエピソードを神話に仕立て上げた、というのが主張。邪馬台国の記録がある三世紀前半には、九州の勢力と出雲、大和、尾張、関東などの勢力は対立も連携もせず個別に存在していた、ということになる。こうした技術論からの歴史シナリオの検証は重要。ぜひ、その後の展開を聴かせてほしい。