森浩一といえば歴史学者にして、考古学の泰斗であるにも関わらず、従来からの定説と言われる主張にも疑義を持ち、事実を再発掘して検証してみる努力を惜しまない人だったようだ。本書は、晩年における古代史考古学を考える上での備忘録集大成のような一冊。
1.子安貝は古代中国大陸でも貨幣として使われたが、中国大陸人が倭人に関心を持ったのは、子安貝をもたらしたのが倭人だったから。子安貝は沖縄諸島が一大産地である。
2.鉄器が手に入る前の打製石器は黒曜石が用いられたが、その産地は長野和田峠、神津島、北海道白滝、隠岐、大分姫島、佐賀腰岳で、交易されたのは日本列島に加え、樺太、沿海州沿岸、朝鮮半島沿岸まで広がっていた。
3.縄文海進により湾が入り込んでいた摂津の地には、平安ころには河内湖として大きな湖が取り残され、上町台地が大阪湾との間に、半島として突き出していた。東成と西成はその半島の東西部分であり、平安時代に淀川河口で行われていたのが八十島祭。河内から摂津は、列島において現代までの数千年で最も海から陸へと地形が変化した部分だった。
4.元号の始まりはいつか。大化は記紀に現れるが、世の中で使われ始めたものとしては大宝律令の大宝。大化、白雉、朱鳥ともに短期間であり、記紀編者による後付の可能性。宇治橋建立の碑にある大化二年道登による、とあるのは八世紀になっての元号権威付けの可能性あり。
5.発掘される銅鏡に刻された年号には、中国大陸の年号が見られるが、発掘された古墳の棺の中に閉じ込められていたのか、棺の横から出土したのか、古墳のどこにあったのかは不明なのかをよく分析する必要がある。鏡の縁に「景初三年」と刻されていたとしても、発掘状態によってはそれが卑弥呼時代のものなのかは確証はない。
6.魏略によれば、倭人は自分は呉大伯の子孫だと自称したという。魏に出向いた倭人の高官にも文身(入れ墨)があったとして、その理由についての説明があり、水中での漁の際に、咬龍の害を避ける意味があった、とわざわざ書いている。つまり、漢人の子孫なのだが、長い年月で文身の風俗を取り入れていて、怪しいものではない、ということ。遣唐使の時代に、倭人・日本の使いを受け入れる立場からすれば、会稽、呉、越の子孫達による国からの使い、という意味は小さくはなかった。
7.記紀の骨組みは、所在地不明の高天原で始まった神々は、日向の高千穂に降り立ち、磐余彦に主導されてヤマトへ東進して大八州を支配した。九州から本州の大和盆地に到達したというのが普通の解釈。しかし、もっと大きく捉えれば、中国大陸の地から東進すると日本列島にたどり着く、という想像も可能である。それを遣隋使、遣唐使を通して大陸にも伝えたのではないか。
8.九州の南と東は鬼界カルデラからの火砕流で6300年前に大きな被害を受けた。その影響は、その後の勢力分布にも残っていたはず。大陸の人たちが見る日本列島に暮らす倭人には、複数の存在があり、その勢力は北九州地域、九州の西部、南部と分かれていた。大陸からのルートにも、半島経由と東シナ海ルートがあった。東夷人と倭人、女王国と狗奴国、磐井と熊襲などなど。本書内容は以上。
基本的な古代地理の認識や暦の認識、距離の測定、年代の検証などなど、亡くなる間際まで研究の検証に打ち込んだ研究者だったようだ。この一冊を読むだけでも、古代史に関する多面的な見方の必要性を学ぶことができる。