朝鮮王朝は1392年、李成桂が高麗の恭譲(コンヤン)王からの譲位という形で王位に就いたのが始まり。当初の政権は安定しなかったが、第4代世宗(セジョン)の時代になり安定を見る。しかしその後も王位を巡っては血で血を争う争いが繰り広げられ、その中で朝鮮半島の民衆は虐げられ収奪されつづけた。筆者は両親が朝鮮半島生まれの在日二世。愛国心は近代に生まれた迷妄であると言い切る人物。ユーゴスラビアでも朝鮮半島でも、愛国心やナショナリズムは戦争で利権を得ようとする連中が人々を扇動する手段だと言い切る。本書では朝鮮王朝の歴史を振り返り、幕末から明治維新にかけて、先に近代化に成功した日本の帝国主義政権に良いように蝕まれ続けた朝鮮王朝の姿を描く。
朝鮮における近代化で決定的な遅れをもたらしたのは、1802年から1882年までの鎖国とキリスト教禁止であり、その間、西欧諸国からの科学情報も絶たれ、科学の進歩に致命的な空白の80年であった。その間、日本列島では、行きつ戻りつではあるが、西南各藩においては、蘭学、医学、砲術、ライフル、軍艦が導入され、政府は明治維新で近代国家の形成を図っていた。この小さな遅れが後に日本が朝鮮半島を支配する事態につながる。
この期間に現れたのが大院君。その名は李是応。朝鮮16代王仁祖の三男の6代孫だった南延君の4男として1820年に生まれた。その頃の権力者は王族ではない安東金で、王族はその血筋ゆえ危険視されていたため、英明を判断されると命を狙われたという。酒と博打にうつつを抜かすふりをしていた李是応が、チャンスを掴んだのは、次王の決定権を持っていた王妃に取り入ったこと。前王の死により、次男を国王とすることに成功し、自らは国王の父である「大院君」となる。摂政として政治に実権を振るい、朱子学の理想である為民政治を実現しようとした。その大院君が王の妃として選んだのが閔妃、当時16歳の少女だった。大院君が警戒したのは、王妃の一族が外戚として権勢をふるい王権をないがしろにする勢道政治の復活であり、親戚の中に有力な家門を持たない少女のはずだった。
大院君は対外的には鎖国攘夷政策を継続・推進、天主教弾圧のためフランス人宣教師をはじめ、国内数千人の天主教教徒を処刑した。これに対しフランスは艦隊を送り攻撃するが敗退、その際、金銀財宝、武器、書籍を略奪、2011年になるまでそれを保持していた。日本からの開国要求に対しては、これを拒否。アメリカ艦隊による砲艦外交にも鎖国政策を止めなかった。
維新後、日本で起こっていた征韓論は、幕末の吉田松陰の「取り易き朝鮮、満州、支那を切り従えるべき」という主張を、その薫陶を受けた木戸孝允、伊藤博文らが受け継いだもの。同じ頃、明治政府は所属が曖昧だった琉球王国に琉球藩となるよう命じ、清との冊封関係を解除して明治の年号を使うことを強制した。これが琉球処分であり、その後長い間、琉球の民は日本による民族差別に苦しむことになる。
アメリカ艦隊を撃退した二年後の1873年、22歳になっていた閔妃が歴史の表舞台に登場する。機知に富んだ会話で聡明だった閔妃は、大院君により追放された勢力を味方につけて大院君を失脚に追い込んだ。閔妃は大院君が行ったすべての改革をもとに戻し、不正がはびこり民は酷政に苦しむ以前の状況に後戻り、国家財政は破綻寸前になる。その状況を好機と捉えたのが日本政府で、1876年江華島事件から日朝修好条規を締結。清の「日本とのバランスが必要」というアドバイスを真に受けた朝鮮王朝は、1882年にはアメリカとも修好通商条約を締結、イギリス、ドイツ、イタリアなどとも治外法権、関税条項などの不平等な内容を含む条約を締結することになる。この開国と同時に大量に朝鮮半島に押し寄せたのが日本人商人だった。日本人の思想をリードしたのが福沢諭吉、弱肉強食の文明論で、日本は西欧諸国に伍して、文明国の餌食となるより、文明国として新たな餌食を求めるべき、とした。
1882年、朝鮮国内では都市貧民による暴動が起き、それを軍が収めようとするも膠着状態となる。軍に担がれたのが引退した大院君。政府にも反対する反乱軍となり、武器庫を破壊して武装し、閔妃を探し回るが、閔妃は王宮を脱出する。執政となり復活した大院君は閔妃一族を王宮から追放。しかし閔妃と連携した清政府は大院君を天津に連行・軟禁してしまう。これが壬午軍乱で、閔妃と連携した清は朝鮮における支配権を握ることとなる。これでは朝鮮の未来はないと考えたのが開化派で、金玉均らは日本公使竹添進一郎を頼って政変を決行するが、袁世凱が指揮する清の軍勢に一掃される。
1892年以来凶作が続いた全羅道では農民が蜂起、農民軍と官軍は睨み合ったまま進退窮まった朝鮮政府は清軍に出兵を要請。要請を受けた李鴻章は朝鮮が清の属国であることを内外に示す好機とばかりにすぐさま軍を派遣した。日本政府も居留民保護を名目に6千人を派兵するが、原因となった農民蜂起は和約により解消を見て、清も日本も軍隊駐屯理由を失う。ここで仲裁にでてきたのがロシア。しかし日本はイギリスと共同で、朝鮮内政改革のための委員会設置を提案、しかし清はそれを拒否した。これを契機として、日本軍は朝鮮王宮に侵入、国王を捕らえ、閔妃政権を打倒して親日政権を打ち立て、清軍を朝鮮から駆逐すべしという文書を作成させ、日清戦争の手がかりをえた。
国王の日本軍による捕捉を知った朝鮮人は抵抗をするが、多勢に無勢の日本軍に殺戮される。日本軍は日清戦争で、朝鮮人と清軍とを相手に戦ったことになる。このときの朝鮮人死亡者は3-5万人と言われるが、正確な数字は不明で、数十万人が殺されたとする異論もある。日清戦争の結果、下関条約が締結されたが、その3ヶ月前、日本政府は魚釣島、久場島、大正島、北小島、南小島を尖閣諸島として沖縄県に編入することを閣議決定する。日清戦争前には、領有を主張している清を刺激するとして編入を躊躇していた日本政府だったが、日清戦争の勝利が間違いなくなった時点で、これを実施した。
日清戦争後、日本一人に中国の利権を独占させたくない列強は三国干渉で、日本に遼東半島返還を勧告。日本以外の欧米列強各国も朝鮮国内の鉱山、交通、通信などの利権を奪取していく。日清戦争は清、朝鮮両国が経済的に従属的な地位に転落する決定的な契機となった。しぶとく抵抗したのは閔妃で、井上馨の後任として赴任した三浦梧楼は、日本軍守備隊と日本人民間人、そして朝鮮人訓練隊に王宮突入を命じた。閔妃を殺害したのは日本民間人の一隊だったが、国際社会はこれを日本軍の関与ありと非難する。朝鮮国王と王太子はロシア公使館に密かに避難。国王はロシア公使館で執務するという変則的な事態となる。この結果ロシアの影響力が増すが、1896年朝鮮は大韓帝国と国名を変更、自立を国外に示そうとする。
光武改革と呼ばれる国家改革だったが予算の裏付けがなく民衆からの収奪が強化され不満が高まる。1900年の義和団事件以降、日露の対立が深まる中、日本は日韓議定書締結を軍隊を派遣して強要。日露戦争中は、朝鮮半島では軍用地としての用地収用が強制され、戦争の結果では、朝鮮半島での日本権益がさらに強化された。この時期に、独島、日本名竹島の領有に関し日本政府は領土としての編入を実施。江戸時代以降、江戸幕府と朝鮮王朝はお互いに独島・竹島の領有を主張してきているが、確固たる専有の証拠があるわけではないのは両国とも同様であった。当時の日本海軍は日露戦争における軍事的理由から、ロシア艦隊の監視目的があった。太平洋戦争後の李承晩政権による独島領有宣言もこれと同様、日本が占領下にあり身動きができない時期に行われており、お互い様とも言えるが、いずれも一方的で不当な宣言であることは否めない。
日露戦争後のポーツマス条約締結を受けて、日韓では軍隊による威圧のもと保護条約が締結され、朝鮮王朝は実質的に滅亡、日本による朝鮮の植民地化が進められる。朝鮮国王は密使を世界各国に送り、保護条約の無効を訴えたが効果はなかった。その後も、朝鮮民衆による抵抗運動が広がるが、日韓併合を止める動きには至らなかった。本書内容は以上。
朝鮮半島の歴史を通史として学ぶのは初めて。従属と殺戮、蹂躙の歴史とも言える内容で、悲惨な抑圧の歴史である。日韓併合の前からの動きを知ることで、歴史認識の視野が広がることは間違いない。多くの日本人が知るべき内容だと思う。