歴史書を読むとき、登場するのは中大兄皇子、足利義政、秀吉と家康、西郷隆盛と大久保利通などの、歴史に大きな働きをした中心人物。その時期に最も多くの活動をしていたはずの一般人はどのような影響を受けたのか、歴史に影響を与えたことはあるのか、という視点が殆どない。本書では、各時代を専門とする専門家に民衆はどうしていたのかを語ってもらう。
白村江(はくそんこう)の戦いの具体的場所は、河口に何百艘もの大軍が戦った場所として東津江河口から錦江河口だと推測。出兵目的は百済(ひゃくさい)の援軍であり、百済復興のために、新羅と陸上で戦うつもりだったので、海戦は想定外であり大敗した。おまけに倭国の一行は九州や西国中心の豪族の寄せ集め軍だった。豪族は地元民である農民兵が中心で装備が貧弱、戦いの目的がわからずモチベーションは低かった。それでも豪族の長たちは、無事帰還時には、諸仏のために寺を建てよう、などと兵をなだめて船に乗せたという。しかし相手は唐の統制が取れた軍隊で勝敗の趨勢は明らかだった。ヤマト王権は磐井の乱以降も勢力を維持していた九州豪族の勢力を削いでおきたい思いもあった。捕虜になり数十年後に帰国した兵もいたが、ほとんどの捕虜は異国で亡くなった。663年の9年後には壬申の乱が起きて大王天智の息子大友皇子は大海人皇子に敗退した。大友皇子が頼りにしたのが西日本の豪族、大海人皇子を支えたのは東国の豪族だった。唐と新羅からの侵入を警戒したヤマト王権は九州、西国の守り強化のために、主として西日本の豪族に、山城や土塁を築かせた。人員的にも経済的にも大きな負担だったはずで、壬申の乱の結果に白村江の戦いは大きな影響を与えた。
足軽、という存在が日本史上現れたのが応仁の乱。足軽は鎧兜をつけず剣だけを持って敵と戦う、はずだが、実際にはその存在は「悪党」であり、敵がいない場所に押し入って強盗を働く貧乏な下級武士の一団だった。足軽と称することで略奪が戦いとして正当化され、雇い主も恩賞を与えなくて済む。土一揆も「徳政令」という借金をチャラにする戦いとして位置づけられるため、足軽の存在と土一揆は同じメンバーが活躍したとも言える。つまり、庶民が戦の被害者としてだけではなく、略奪者の一味でもあったというしたたかな側面を持つ。
大阪冬の陣から夏の陣にかけては、戦いを避けて町の外に避難した庶民と、傭兵として大坂に家族ごと集まってきた武装集団がいた。家康軍は勝利の後には「乱取り」と称される略奪を働いたとされるが、押し入った町民の家は、傭兵として集まってきた秀頼軍の住まいだった。一方、京都の町民は豊臣軍の焼き討ちを恐れて荷物を町の外へ運んでいたという。
幕末の禁門の変では、幕府側として戦った一橋慶喜、会津藩松平容保、桑名を合わせて一会桑と呼ばれ、その時に起きた大火災は幕府側が火をつけたためだと京の町民が目撃していた。長州側が火をつけたのは長州藩邸だけで、その他の放火の指示は一橋慶喜、実行は桑名、会津だった。この「どんどん焼け」で焼けた範囲は今で言う御所南側から七条までの京の南半分から3分の2にも及んだ。一会桑は京の町民と公家、他の大名からも恨みを買った。恨みは買ったが、一会桑の武士たちは乱暴を働いたり盗みをしたりはしていない。1800年ころには人口37万人を誇っていた京の町だが、幕末には30万人になり、明治4年には23万人にまで落ち込んだのは、このどんどん焼けの復興が進まなかったことと、首都が江戸に移ってしまったことが原因。その京都を復興させたのは三代目の京都知事を務めた北垣国道で、発電、琵琶湖疏水を導入、第三高等学校を誘致することで産業振興を図った。松平容保は京の警護のため多くの人を雇ったが、このとき口入れ役をしたのが会津小鉄。維新後は組織を立ち上げ、遊郭「五条楽園」を築き、勢力を拡大していった。明治の京都発展に貢献したもう一人は西郷隆盛と愛加那の子である西郷菊次郎。上下水道整備、市電設置、発電導入により近代以降の京都発展に寄与した。
最後の座談会に登場しているのが「京都ぎらい」で売れた井上章一さん。戊辰の役で伏見に陣を敷いた鳥羽・伏見の戦いは、新政府軍は京の町を守りたかったんだという話。日本で一番古い建物は千本釈迦堂であり、醍醐寺の五重塔ではないんやで、という京都の人がいて、京都の町の定義にはひときわ神経をとがらせるのが京都人だという。太平洋戦争で、京都でも疎開、立ち退きがあった。御池通、五条通、堀川通がその御蔭で広くなったのは良かったが、その内側には祇園祭で鉾を出す鉾町がある。疎開でも鉾町を守りたかったんではないかなどと、京都人のプライド高さを、自分の本の宣伝にも使っている。自分の売り込みそのものが京都人を皮肉っていて面白い。本書内容は以上。