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意思による楽観のための読書日記

平安朝の事件簿 繁田信一 ***

平安時代の貴族であった藤原公任は藤原摂関家の御曹司として生まれ、権大納言にまでなった上級貴族。漢詩・和歌・書などに優れた文化人だった。「北山抄」という有職故実を記述した著作があるが、検非違使の職にあった時期に、その北山抄の著作を書き溜めていた。その際、検非違使別当の公文書として書いて反故になった裏紙を使った。公文書とは訴えのあった告発状や訴訟内容、検非違使からの命令書を記述した書類なので、その時代の事件簿でもある。歴史学者の中では「三条家本北山抄裏文書」と呼ばれている歴史的に意味のある草稿。この裏文書には都の事件よりも地方で起きた事件を告発した内容が多い。時代は西暦980-1050年ころで、山城、大和、摂津、河内、播磨、紀伊、備前など、検非違使が担当する地域の広がりが知れる。また1000年も前のお役所手続書類が今でも残ることに驚く。

一つの例を紹介する。長徳三年(997年)6月5日に河内国若江郡で、16騎の馬兵と20人あまりの歩兵が、前淡路の掾の肩書を持つ若江の郡司である美努兼倫の屋敷を夜襲した。武装団の首魁は美努公忠、利忠、英友など同じ豪族であり美努を二分する対立があったことを伺わせる。これを指図したのが太皇太后宮視史生の肩書を持つ下級貴族の美努真遠。兼倫を縛り上げ殺そうとする時に近隣住民が異変に気づき集まってきた。住民の一人に上野の掾の肩書を持つ源訪がいたため、公忠一味は奪い取った財物を持ち敗走した。兼倫は泣き寝入りはせず、この顛末を書状に認め、検非違使の公任に訴えでた。郡司は課税・徴税の監督であり、地方の有力者である「刀禰」を取りまとめ役でもあった。都の政権としては徴税の貴重なキーマンの訴えを誠実に聞いて対処することは重要だったはず。

当時の庶民のほとんどは農民、漁民であり、農民は百姓とも呼ばれるように、田畑だけではなく、山での林業やキノコ栽培、狩猟、畜産、養蚕なども行っていた。刀禰は彼らの取りまとめ役であり、鋤や鍬など鉄器で高価な農機具と種籾を貸し出し、集団でしか成し得ない開墾、灌漑、水の調達と分配、鳥獣害防御などの作業させることでまとめて収穫物を納税していたと思われる。兼倫のような郡司も自身の居住地の名目で所有する土地内で水利の良い場所を垣で囲い、外側に堀を廻らせていたはずである。垣内(かいと)と呼ばれるその内側には住居、蔵、使用人の家宅、耕作地などがあり、その内側の農地からの収穫物は免税対象となっていた。垣内の外側には門前の田、畑という「門田」「門畑」があり、そのさらに周りに「名田」があり、ここから上がる収穫物の一部を納税していた。班田収授法が崩壊し、荘園がはびこるこの時代には、このような名田を持って経営する豪族を田堵と呼び、地方国司は彼らに徴税代行をさせていた。国府が所有する公有農地であれば、国司による課税が可能だったが、寄進荘園のように、領家や本所である中央貴族や有力寺社に繋がる場合には課税を免れる代わりに、領家・本所への寄進が必要となっていた。

藤原氏の摂関政治が行われたこの時代にも、このように地方では農民が汗を流して米や野菜を作り、国司や荘園主に税や上納品として収穫物の米を納めていた。武士としての明確な存在は明らかではないが、地方豪族たちは自衛のため、そして安全保障上の必要性から武装集団を養成していた。また、個々の農民たちでも自衛のための武器を手にしていたと思われる。この頃から鉄製品を作る鍛冶技術が地方にも普及し、農機具とともに武器を手にする自衛団が発生していた。大規模な荘園経営者や田堵所有者は、武装集団を雇っていたケースもあった。自衛団を束ねる集団が武者集団として徒党を組み始める時期でもあったため、都でも地方でも治安は乱れていた。この頃、畿内・近国で有力豪族として地位を確立していたのが坂上田村麻呂の末裔氏族坂上氏、衛門府に人材を供給していた多米(ため)氏、茨木(まんた)氏、恩地氏。大和の弓削氏も武者の系列であり、源氏と平氏以外にも多くの武者たちが集団を形成していた。

このような寄進荘園の免税措置も地方での争いの原因となる。免税を認める書状が発出されたのが数十年前であり、現在の国司がそれを認めない場合には、強引な徴税も行われ、それに対抗する田堵や地方豪族による訴えもあった。嫌がらせのため、他人の水田の稲を勝手に刈り取る狼藉者を雇うという事件もあった。悪徳な高利貸しも蟠踞し、土地建物の権利書を取り上げられたので、取り返して欲しい、という訴状もある。この時代、土地の権利はすべて書類で管理され、地方国司は不動産管理の元帳まで持っていたと思われる。火災などで不動産と書類一切が焼失した際の、権利復活手続きも行われた。その際には、権利の所在を主張する本人とそれを証明する証人、それを認める刀禰や郡司が認めた書類を国司に提出することで、書類復活と不動産所有権を認める手続きが行われた。

地方からの納税物・調を運搬する際、海運が利用されたが、瀬戸内海には多くの海賊が跳梁跋扈し、多くの被害者が出たため、徴税に支障が出る事態となる。それを取り締まるのが、地方にアサインされている押領使もしくは追捕使だった。地方からの租・調である米と塩を美作から京に運搬するのに、備前、瀬戸内海、淀川経由で船により運搬した、その船が難破した際、強奪された。それを訴える書状があった。舵取(船長)は佐伯吉永で、品物を海運するビジネスを行っていた。請け負った荷物は米180石と塩20籠で、輸送料金が20石。借りた船の使用料が10石で船員への支払いやその他手数料合計で16石となり、舵取としての収入は4石ほどとなる。当時の成人男性一日の日当が米1升なので、1年間働いても360升、3.6石がせいぜいであること考えると、備前から淀湊まで9日ほどなので、上手く行けば良い実入りの見込める商売であったはず。これを難破させた末に強奪されたとすれば、佐伯吉永は大変な損害を被ることになる。この時代に有名な海賊といえば、藤原純友の乱を起こした純友。瀬戸内海は同様の海賊で通行もままならなかったという。本書内容は以上。

日本史の教科書で紹介されるこの時代の事柄といえば、摂関政治から院政への移行期で、地方では平将門の乱、藤原純友の乱、平忠常の乱、刀伊の入寇があり、文学では、枕草子、源氏物語など。荘園の増加、武士の勃興などが地方では一斉に起き始めていて、地方や庶民の間では相当な変化と生活進歩が起きた時代のはずだが、教科書的にはそのあたりの記述は結構スカスカなことが想像できる。都の人たちにとっては、瀬戸内海でも鞆の浦より向こう、東方向だと、不破の関、愛発関、鈴鹿の関の向こうなどは、遠国のことなので、地方の司の皆さんで上手くやっておいてね、というくらいの存在だったのかもしれない。だからこそ、不満と一定の勢力を持ち始めた地方国司たちが、XXの乱を起こしたのだろう。東国武士たちの決起だった頼朝政権の芽は、王朝時代の地方にすでに芽生えていた。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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