浅田次郎、流石の一言、エンターテイメント読み物として一級品。生まれて以来江戸住まいの小野寺一路は19歳、故郷西美濃に住まう父が失火のため亡くなったことを知らされ急ぎ帰郷する。初めて目にする西美濃は田名部、父のお役目は参勤道中お供頭で、殿様の参勤交代を取り仕切るという大役。西美濃田名部の殿様、蒔坂左京大夫は大名ではないが7500石の旗本、無役ではあるが大名と伍して帝鑑の間に詰める大名格であるため参勤交代も義務付けられていた。参勤交代のお供頭は上士ではあるが80俵扶持の代々のお役目。失火による屋敷焼失は大罪であり家名断絶もあり得るが、そこは亡くなったという父の親友たちが息子の一路にお供頭を務めさせ、無事に仕事を終えられれば家名を守れるよう取り計らってくれた。しかし一路は父から一度もお供頭の仕事について聞いたことはない、頼るものは家伝の「行軍録」のみ。慶長年間に作られた行軍録は1861年の幕末における参勤交代とは大いに異なるはずだが、一路は古式ゆかしい参勤交代を行うことを決意し、蔵を開けて慶長年間に使われた槍、武具、櫃などを引っ張り出し昔の参勤交代を目指す。
蒔坂左京大夫は先の殿様が子がなく養子縁組をした後の子、そのため一度は養子になった叔父の将監は、殿様にはなれず、先の殿様亡き後は幼き左京大夫の後見役となった。面白くない将監は、慣れないお供頭が取り仕切るこの参勤交代を機に左京大夫の失脚を狙っていた。何も知らない一路は張り切って参勤交代を取り仕切る。出発するのは美濃国、田名部は架空地名だが、その後は中山道を通って江戸までの13日の工程で、12月初旬の寒い中山道を50名の徒士と殿様、お供の将監が供頭で19歳の一路に率いられて進む。
泊するのは、鵜沼、大鍬、妻籠、上松、奈良井、下諏訪、和田、岩村田、松井田、深谷、桶川と現代なら程よい見物旅行となるが、当時の中山道は舗装も照明もない冬の山道。加えて、日程の遅れや事故死者がでると行軍不行き届きとみなされ不始末の責任を取らされる。将監はこれが狙いだが、一路はなんとか首尾よく旅程を完遂させようと知恵を絞り努力する。上巻は田名部から下諏訪までの工程。