琉球王国が形成されたのは12世紀頃、民族的には日本列島に住む日本人と同一系列ではあるが、弥生式土器は出土せず、南太平洋文化に近い石器や土器が出土する。中国の隋の歴史書「隋書」には636年時点で流求として登場、「虻の水中に浮かぶが如し」ということから流虻、そして流求、琉球と変遷してきた。船から見た琉球諸島がそのように見えたのかもしれない。オキナワは8世紀頃に「阿児奈波」と唐大和上東征伝に記述があり、17世紀ころからは「沖縄」と書かれるようになった。九州の漁師が沖でナワ(漁)をする場所、という説もある。12世紀以降はグスク時代、北中南の三王国がシノギを削っていた。1368年に中国ではモンゴル人の元が滅亡して漢民族国家である明が建国、その時、中山王は明に朝貢して三王朝を統一して明の冊封体制に組み込まれた。16世紀になると、日本列島では朝鮮出兵を企図して、琉球にも出兵の要求をよこすようになったが琉球はこれを拒否、その後家康の意向を受けた薩摩藩島津氏が3000の兵を差し向け、武器を持たなかった琉球王国はあっけなく敗退、琉球王国は薩摩に占領された。それ以降、薩摩を経由して徳川幕府への租税支払いが義務となり、奄美、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島も薩摩藩に割譲された。江戸への使節団は将軍交代ごとに送られ、18回に上った。しかし琉球王国内でも石垣や与那国などは琉球王国への租税に苦しめられるという多重支配構造があった。そして、明治維新、廃藩置県に遅れて、朝敵となり最後まで新政府軍と戦った会津藩などと同じ程度の「琉球処分」という強い響きの処置が明治政府によって行われた。明治政府に表立って歯向かったわけでもない琉球に対する措置に、沖縄の人たちは今でも強い痛みを感じるという。
明治政府が気にしたのは清国の立場と意向、1871年に起きていた宮古島島民の台湾先住民による殺害事件があり、台湾出兵を目論む明治政府が、廃藩置県以降にもかかわらず、琉球藩をまず設置、1874年に台湾に琉球藩民保護という名目で出兵した。この時には日清両国は北京議定書を取り交わし50万両の賠償金を清から受け取った。ここに、琉球は日本、という事実承認を清国から得たことになる。琉球処分では、清国との進貢関係の禁止、暦を明治元号とする、藩王は上京する、という3点を認めさせる内容であった。南風原朝保が生まれたのは1893年のことであった。朝保には弟の朝光がおり、朝保は医師に、朝光は画家となった。朝保は上京時に知り合いでもない森鴎外を訪問、弟子入りを希望、鴎外も日記にそのことを記録している。当時、鴎外は軍隊の医務監であり、鴎外が兵隊の白米食に強くこだわったため9割の兵士が台湾遠征では脚気に倒れたという。
沖縄戦で戸籍が消失している沖縄では戸籍からの確認が十分出来なかったが、朝保は1915年に、帝国劇場にも出演していたという沖縄出身の夏子という女性と結婚していた記述を発見、そして、1915年比屋根ツルと結婚、という事実、そしてツルは夏子と同一人物であることを突き止めた。長女里々の誕生は1917年、その頃ロシアに留学していた朝保は西洋よみの名前を付けたくてリリーと命名、しかし1919年には夏子は死亡したという。この時代、ロシアには多くの日本人がわたっており、作家の二葉亭四迷や曠野の花を書いた石光真清もその一人である。朝保は妻の夏子を失い、医師としての活躍の場を求めて1919年の当時、日本領として大きく近代化を進めていた台湾に移り住んだ。
この当時の台湾には先住民が多く住んでおり、中国人にとっては漁業基地という位置づけ、化外の地であった。台湾は1544年にポルトガル商船がイル・フォルモサ!、美しい島と命名、台湾は別名美麗島と呼ばれるようになった。17世紀にはオランダ人が島を領有、明から清朝に移行する頃には大陸からの移住者が増えてきた。鄭芝龍がオランダとの戦いに勝利したのは1661年、日本でも国性爺合戦として浄瑠璃で取り上げられている。オランダ人は先住民が客人を「ダイヤン」と呼ぶのを聞いて台湾という漢字を当てた。
里々達が渡った台湾はこうした歴史を持つ先住民の土地、沖縄人達が日本人と一緒になり、先住民を討伐するというとこになり、ここでも日本、沖縄、台湾という多重支配の側面を持った。里々は医師の朝保の娘として裕福な娘時代を過ごしたらしい。そして沖縄で400年以上の歴史を持つ家の生まれ、与那原良規と出会う。二人は、里々が東京に出てから結婚することになる。朝保はそんな中で病院の看護婦や友人の妹と関係を持ち、派手な生活をしていたという。そうした友人の一人が古波蔵保好、朝保は保好の妹の登美と再婚することになる。台湾には与那国、石垣、竹富などの琉球から女中奉公の若い女性たちを受け入れていた。この時代の先島諸島のほとんどの若い娘は台湾に躾のためと称して女中奉公に行ったというのである。先島諸島が貧困な時代である。そして台湾には多くの日本人が移住、台湾への移住者の内訳で、1940年には沖縄出身者が第一位になっている。台湾が沖縄よりも文明の先進地帯だった頃のお話である。
逆に石垣島には台湾からの労働者がサトウキビ栽培と砂糖生産のために送り込まれている。石垣島では琉球王国時代に人頭税が課せられ、収入の8割を徴収されていた。波照間や西表から石垣への強制移住と労働が人々を苦しめた。台湾からの移住者が多い石垣島では、今でも多くの中華料理屋がある。
里々は台北でラジオ放送に携わった。南風原病院に出入りしていた川平朝申の誘いで台湾放送協会のアナウンサーとなったのだ。朝申の弟朝清の息子が川平慈英とジョン・カビラである。里々はこのラジオとの関わりをきっかけに21歳の時に上京、1938年から3年間東京中央放送局(JOAK)の番組を担当した。声が綺麗で、台湾育ちだったため沖縄訛りもなく充実した日々を過ごした。そして1940年、良規は家で同然で上京、翌1941年里々と結婚する。台湾では朝保が病院業を拡張していたが、戦線は台湾にも迫っていた。終戦の時、中国大陸では蒋介石の国民党政権が四川に追い詰められ、終戦後の1945年10月、国民党軍は台湾に進軍、中華民国国民政府を宣言した。台湾総督府は施政権を国民党政権に移譲、台湾にいた日本人は48万人だった。朝保も台湾から沖縄に引き上げ、沖縄で病院を開いた。戦後の混乱時期、与那国は最も近い島、台湾との密貿易で潤ったが、米軍の物資が中国に流れる経路となっていたため米国が厳しくこれを禁止、その後の与那国の繁栄はなくなった。
里々が5人目の子供、筆者を生んだのは、朝保が死んだ1957年の次の年、40歳の時であった。里々は結核を患い、出産は死の危険を伴っていたが、台湾での占い師の言葉「5人の母になる」を信じて筆者を生んだという。1960年には画家の朝光が死亡、里々の寿命が長くはないことを知った良規は里々を伴い1968年沖縄を旅行した。沖縄では里々は朝保の最後の妻であった登美を訪問。登美は旧姓にもどり琉球料理店を開いていた。その2年後里々も死亡、その5年後に良規も亡くなった。
筆者は母のため、そして父のためと、凄まじい量の資料を読み、実際に沖縄、石垣島、与那国島、台湾へと調査のために赴いている。母の一生を知りたい、父、そして祖母、祖父の暮らした土地と歴史を知りたいという欲望とも言える執念だと感じる。沖縄の歴史を学びたい人がいるとしたら、下手な歴史書よりもずっと記憶に残る歴史ドキュメントであることは請け合う、沖縄を「癒しの地」と思って旅行する人にもぜひ読んで欲しい。
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