「中継ぎ天皇」は次世代に有力な天皇候補が予定されているのだが、何らかの事情で天皇即位が難しい場合、それが可能になるまでの間天皇になる」と解釈される。有名な後白河天皇は鳥羽天皇の皇子であり、崇徳天皇の弟であるが、崇徳天皇は鳥羽天皇の后である待賢門院と鳥羽天皇の祖父白河法皇が密通して生まれた子とされる。白河法皇は絶大な権力を持ち、藤原璋子(たまこ)を養女にしながら関係を持ち、藤原璋子を孫の鳥羽天皇に妻として与え、さらに鳥羽天皇が21歳の時に譲位を命じてその子崇徳天皇を誕生させたのである。崇徳天皇即位の6年後白河法皇は死亡、鳥羽上皇の時代となる。鳥羽上皇は美福門院藤原得子(なりこ)との間に男児をもうけ子供のいない崇徳天皇の養子とした、これが近衛天皇。しかしその翌年、崇徳天皇にも男児が誕生、これが重仁親王。更にややこしいことに、重仁親王は美福門院の養子となる。力を持っているのは鳥羽上皇、崇徳天皇に命じて、養子になっていた近衛天皇に3歳で譲位させたが、その近衛天皇は17歳で死んでしまう。後白河天皇は鳥羽上皇と待賢門院の間に生まれた第四皇子だったが、崇徳天皇との間の2人は早世、守仁親王を子としていた。鳥羽上皇としては白河法皇との密通で生まれた崇徳天皇の子供には即位させたくない、そこで美福門院はこの守仁親王も養子にしておいて、守仁親王は後に二条天皇となるのだが、その前に、後白河天皇を立てようということになった。そしてその翌年鳥羽上皇が死亡、ないがしろにされ続けた崇徳上皇は兵をあげ、保元の乱となる。後白河天皇即位の3年後には守仁親王への譲位をさせられ、二条天皇が誕生。その翌年には平治の乱が起きるのだが、後白河天皇は側近からも軽んじられていたとされるが、加速する動乱の中、後白河上皇の政治的才能は、出家して法王となり開花していった。つまりこの時代の天皇は子供の時に即位して、早くに譲位するか早世している。院政時代というのは天皇が中継ぎだった時代、とも言える。
同じようなことが起きたのが、持統天皇。天武の死後4年間は称制として天皇を代行、息子の草壁皇子に譲位をしたかったのだが、28歳の皇子が死亡、それではと孫の文武天皇を即位させるために42歳で中継ぎとなるが、15歳の文武天皇に譲位してからも、夫であった天武と共に制定した飛鳥浄御原令をベースに大宝律令公布、58歳でこの世を去る前に律令の施行具合を見る旅に全国を回った。大宝律令は文武天皇の時代に発布されたが、実は持統上皇が実現したといえる。院政はこの時代にもあったとも言える。称制は天皇が死んで、次の天皇が即位するまでの時間を空ける場合にあり、斉明死後の7年間中大兄皇子が称制、白村江の戦いで大敗北を喫したことを受けて、唐の大軍を迎え撃つためには準備が必要という称制であったという。
最初の女帝、推古の時代は蘇我氏の時代である。推古は欽明と蘇我稲目の娘堅塩媛の子炊屋(かしきや)姫であり、欽明と別の女性石姫皇女の間に生まれた敏達と結婚、敏達が疫病で死ぬと、異なる母を持つ異母弟の用明が即位、2年後に用明が死亡すると、蘇我稲目のもう一人の娘小姉君との子である崇俊が即位、しかし蘇我馬子に暗殺されたため、敏達の后であり、欽明の娘でもある推古が大王となる。背景には物部氏と蘇我氏の権力争いがあり、権力を握った蘇我馬子が姪に当たる推古を擁立したといえる。本来なら、用明と小姉君の娘穴穂部間人皇女の間に生まれていた厩戸皇子を即位させたかったが、まだその崇俊暗殺の時点で19歳と若く、敏達の系統で息長氏の娘広姫との息子である押坂彦人大兄皇子の即位を妨害するために即位させられたという。押坂彦人大兄皇子には一人の子がいて、崇俊が殺された翌年生まれ、推古死亡後には舒明となる。日本書紀にはこの押坂彦人大兄皇子は意図的とも思えるほど無視され、一方の厩戸皇子は一度も天皇になっていないのに現代でも有名である。生きている天皇が次世代に譲位する初めてのケースは推古の二代あとの皇極で乙巳の変を受けての譲位であった。推古は即位後も、厩戸皇子に譲位することなく、死んで舒明にバトンを渡すことになる。その舒明帝の后が押坂彦人大兄皇子の孫に当たる皇極である。
舒明帝が死んだ時には舒明帝と皇極の間に、大海人皇子、中大兄皇子がおり、舒明帝と蘇我馬子の娘法提郎女との息子で古人大兄皇子、そして厩戸皇子と蘇我氏の流れをくむ刀自古郎女との息子山背大兄皇子が王位継承候補者としていた。この時の権力者は蘇我蝦夷、有力な候補者を押す勢力間の争いを回避するために皇極に即位させたと考えられる。皇極の父は押坂彦人大兄皇子だが、敏達の孫でもあり、母は欽明の孫であった。古代の6名の女帝で大王の娘以外で即位したのは皇極だけである。そして乙巳の変、皇極の目の前で、中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害され、大王の座を自ら欲したのではない皇極は史上初めての譲位をする。譲位した相手は弟の孝徳、棚から牡丹餅のような即位であった。謎は、孝徳死去後になら天皇に即位してもおかしくなかった中大兄皇子はそのままで、皇極が重祚して斉明となったこと。斉明は一人前になった大海人皇子と中大兄皇子の両皇子を臣下のように従えて強い力を持つ。67歳の時には朝鮮半島からの援軍依頼を受けて自らが出陣、旅先で死んでしまう。この時に同行していたのが有名な額田王であり、「熟田津に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ今は漕ぎいでな」と歌った。この戦争の結末が、2年後の白村江の敗戦である。
文武天皇の跡を継いだのは、その母であった元明天皇、しかしそれは孫の聖武天皇を即位させるための中継ぎであり、聖武が15歳になった時に、元明の娘元正天皇に譲位。この時代の天皇制度はまだシッカリとせず、誰かが天皇の職務を果たさなければ政務が滞ってしまう。平安時代になれば政務の実験は摂政や関白が恒常的に存在したため、天皇の存在が軽かったが、この飛鳥の時代には天皇が一人前であるとみなされることが重要であった。権力者の勢力争いを避け、天皇の候補たる若い男児が成長するまで中継ぎの天皇となる必要性が飛鳥時代にはまだあった、ということである。
そして聖武のライバルは高市皇子の息子長屋王。聖武天皇が即位する前には、持統天皇以来天皇家を支えてきた藤原不比等が死に、その翌年元明上皇も死亡、元明上皇は死ぬ前に長屋王と藤原房前を呼んで、朝廷を支えるようにと遺言をした。聖武天皇が即位、不比等の娘光明皇后との間に基皇子が生まれるがすぐに死亡。聖武天皇を支える勢力は藤原不比等の4人の息子、房前、麻呂、武智麻呂、宇合、ライバルの長屋王を陥れる「長屋王の変」を演出、長屋王一族を誅滅する。4人の兄弟は同じ年に疫病で死亡、そして光明皇后との間には阿倍内親王が生まれる。東大寺大仏建立の後に、49歳の聖武天皇に譲位され即位したのが阿倍内親王であった孝謙天皇、32歳であった。孝謙天皇は21歳で女性初の皇太子になっていた。家庭教師は吉備真備、当時最大の知識人であり、中国からの留学から戻ったばかりであった。男が天皇になる場合には后を娶って子供を天皇にする、というのが筋であるが、女性が天皇になる場合にはこうした規定がなく、内親王が結婚するのにふさわしい親王が、10歳年下の安積親王しかおらず、安積王も17歳で死亡、結婚をするという選択肢が孝謙にはなかった。これには生涯結婚をしなかった元正天皇の存在も影響を持つ。結婚しない女帝は誰かに譲位するまでの中継ぎ天皇である。そして光明皇太后が生きている間は娘の後見役としての役割を持っている。女帝自身は悪巧みをしなくても、周りが悪だくみする、それが橘諸兄の子であり、不比等の孫でもある藤原奈良麻呂の乱であり、武智麻呂の息子であり藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱であった。聖武天皇が死ぬのは大仏開眼供養の4年後、孝謙天皇の後継者に天武天皇の孫で、鎌足の娘五百重娘の間に生まれた新田部親王の子、道祖(ふなと)王を指名、しかし1年もたたない間に孝謙天皇は道祖王を廃太子としてしまう。さらに次の後継者とされた舎人親王の末息子大炊王、一度譲位されるが直ぐに廃帝にして孝謙天皇は重祚、称徳天皇となる。そして有名な道鏡事件を引き起こす。この時天皇は48歳、ゴタゴタのあと53歳で後継者をきめないまま死んでしまう。これ以降江戸時代まで女帝は出現しない。
大王の系統が途絶えたことがあった、武烈のあと、継体が越前からこの後を継いだ時である。大伴金村が連れてきた継体は応神の5世代目とされるが定かではなく、大和の豪族たちに行く手を阻まれて大和の地には入れず、河内で即位することになる。即位の条件として出されたのが、仁賢と后の春日大娘皇女との間に生まれた手白香皇女を后として迎え、その間に生まれる子を皇位継承者とすることであった。継体帝は結婚二年後に後に欽明帝となる男児を設けるが、20年ものあいだ大和の国に宮を設けることは許されなかったという。越前からきた継体帝には目子姫という妻との間に壮年の皇子が二人いた、安閑と宣化である。安閑は仁賢帝の娘の春日山田皇女を娶り、宣化帝はもう一人の異母娘である橘仲皇女を娶る。この橘仲皇女は子を産み、石姫皇女となり、継体帝の子、欽明の后となる。安閑も宣化も二人共大王にはなるが、それぞれ2年と4年で死亡、そして大和の豪族たちが正嫡と考える欽明帝が即位する。とにかく、先代の大王の娘を后にしてなんとか正当性を確保させたい、という周囲の思いであり、男系男子がいない場合、天皇の娘が血筋を伝える存在なのである。
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