「ロビンソン・クルーソー」の作者が1722年に記録として書いた、1665年にロンドンで猖獗を極めたペスト禍について書き残したもの。当時の欧州では人口の三分の一の死者が出たと言われる。記録内容には現在のコロナ禍にも多いに通ずるものがある。
ペストの原因はペスト菌であり、現在ではストレプトマイシンなどの抗菌薬により殆どが救命可能。ペスト菌は現在でも世界には何箇所かに現存しているが、そうした地域での野生動物などに注意することで、予防可能で、感染したとしても抗菌薬で治療できる。ペストには、感染経路の違いから、腺ペスト、敗血症性ペスト、肺ペストの3つの型があり、9割が「黒死病」と言われた腺ペスト。ヒトーヒト間で飛沫感染する場合もある。適切な抗菌薬による治療が行われなかった場合3割以上の患者が死亡する。腺ペストの場合、通例3~7日の潜伏期の後リンパ節の腫脹に加え、発熱、頭痛、悪寒、倦怠感などの全身性の症状が現れる。
当時のイングランドと現代にはいくつかの違いがあり、読み解くにはそのことを踏まえる必要がある。
1.ペストの原因はペスト菌であり、ネズミやノミなどの動物を介して感染することが分かっていなかった。
2.この時代のロンドンでは、階級により職業、住所、経済力が大きな差がある。
3.コミュニケーションの手段が限定的で、情報伝達速度が限定的。
当時行われていたことは、
■感染地域から入ってくる人には40日間の隔離。
■感染者が出た家は未感染の家族も含めて閉鎖、食料など必要最低限の物資のやり取り以外は、見張り人を置いて出入りを禁ずる。
■消毒に使われたのは酢、煙、石炭による焚き火。
■接触感染、飛沫感染を避けるため人と人との接触を避ける。
■ペストによる死者は、死の車と呼ばれる手押し車でまとめて市内に掘られた深く大きな穴に埋められた。
1963年にはオランダではペストが流行していた。ロンドンでのペストの初患者は1964年12月ころ。ロンドン西部地区で、アムステルダムから届いた郵便物から開けたフランス人に感染したと言われた。その家では感染事実を隠そうとしたが検視官が派遣されペストであることが確認された。次の患者が確認されたのは1965年2月、同じ地区だった。死者数の増加は見られていたが、ペスト患者発生は報告されていない。4月になると死者数が急増、しかし患者はロンドン西部地区に限定されていた。ロンドン市内全体に広がるのは夏になってからで、毎週2-3万人という最大死者数が発生したのは9-10月ころ。
お金持ちは馬車でロンドンを離れたが、それは感染者が市中に広がり始めてから。つまりそれらの人たちを感染経路として地方へも感染は広がった。感染しても発症するまでには数日の潜伏期間があることは知られており、そのことが感染拡大を助長した。感染者家屋閉鎖は、非感染家族に対する非情さから当時でも非難されたが、感染拡大抑制には寄与するため多くの市民の理解を得ていた。感染した市民の自由を抑制することが感染をも抑制する、という施策への理解を広報するがペスト管理の最大の施策だった。心ある多くの市民はお互いに助け合った。死体を処理するのは貧民階級の市民たちで、これも感染拡大抑制に寄与した。
多面的に行われた市長の施策により食料調達は継続的に行われ、石炭供給も続けられた。富裕階級による寄付により、貧民階級への食料配給は継続されたため、飢餓による強奪や餓死者はほとんど発生していない。医者や警察官、消防士などの献身的で自己犠牲的な働きがあったことも特筆すべきことである。海外からの輸入はロンドンから離れた港経由で継続され、飛沫感染、接触感染を抑えるという施策を理解していた港湾労働者たちが感染拡大抑制に努めたことにより、ロンドンからの感染拡大は物資輸送者には及ばなかった。
知識や情報が不足する中での重要な感染抑制は、一般市民の感染拡大抑制、感染予防に対する理解と行動だった。17世紀のロンドンでこのような市民の動きがあったことが最大の本書の価値ではないかと思う。コロナ禍の現代に通ずることが多くあると感じる。