新書「応仁の乱」の著者が専門分野の日本中世史によくみられる「陰謀説」について論説したエッセイで、歴史好きならすべてのエピソードが面白く読める歴史エッセー。歴史学者である筆者は、歴史的史実と思い込みや我田引水的なフィクションは明瞭に違うという。本書でいう「陰謀論」とは、特定個人ないし組織があらかじめ仕組んだ筋書き通りに歴史が信仰したという考え方で、陰謀をめぐらしたシナリオ通りに世の中が進んだという考え方。世にある陰謀論にはいくつかの特徴がある。一つは因果関係の単純明快すぎる説明である。歴史上の出来事には複数の、多くの場合に複雑な原因が絡まりあうのが普通なのに、一要因に単純化していること。
本能寺の変には黒幕に家康がいた、という説では、普段から信長に不満を募らせていた光秀が家康討伐を信長から命じられ、逆に家康と手を結んだというモノ。信長が京都滞在後に中国出発する日程を周りに話していた、という「惟任退治記」の記述を信長のカモフラージュだというのも考えすぎで、信長の機嫌を取りたい京の公家たちに京都滞在日程を信長が漏らしていたにすぎない。結果から逆行して原因を導き出すのも陰謀説の特徴。事件によって最大の利益を得たのはだれかと深読みして真犯人を考えるというモノ。
関ヶ原の戦いで、家康は石田三成を誘い出すために上杉討伐に向かった、という説があるが、家康が当時の日本の情勢を読み切っていたとまでは考えられない。秀吉亡き後、前田利家に次ぐ大老の地位にあった家康は秀吉に禁じられていた婚姻による各武将との縁組を進めるが、「内府ちがいの条々」を各奉行や残りの大老から突き付けられ窮地に陥っていた。毛利輝元との和睦を模索していた家康には、会津討伐が反家康勢力の一斉決起を促すことにあった、というのは結果を知っているから立案できる作戦でしかなく、結論から見た逆算的論理であると指摘する。
起点を遡ることで宿命的な対立を演出する、という例が頼朝と義経の兄弟対立。対立は当初からあったわけではないが、陰謀論では当初からの対立の芽生えを史実から探そうとする。そして義経は陰謀の犠牲者だったとするのが陰謀論の常套的結論。頼朝は平氏滅亡後に後白河法皇に接近する義経に不信感を深めたが、すぐに粛清すると決めたわけではなく、なんとか平和的に兄弟である義経を取り込もうとしていたというのが史実。
本書では、足利尊氏は当初より政権奪取を狙っていた陰謀家である、後醍醐天皇は黒幕ではなく被害者だった、日野富子は応仁の乱の主原因を作った、いや逆にスケープゴートにされた、思い上がりが強かった信長は、自信があるばかりに逆に騙されやすかった、「小山評定」は架空の会議であり、実際には存在していない、などなどの学説について検証する。