私が1973年に大学生になり4年生の時に研究室のメンバーになると、年上の先輩たちと過ごす時間が増えて、最初に教えてもらったのが「京大式カード」によるメモと整理術だった。スチール製の小さな箱に入ったB6サーズのカードがきれいに分類されて、研究テーマや読んだ本、自分の興味分野などについてメモや関連書籍情報とともに収まっていた。とても素敵に見えて、その先輩の真似をしたくてカードを購入して自分なりのボックスを作ったりしたが、自分には長く続かなかった。「知的生産の技術」で紹介されたこの京大式カードを提唱したのが梅棹忠夫、民族学者であり探検家、国立民族学博物館生みの親である。
昆虫少年であった少年時代、太平洋戦争の時代と重なる青年時代には登山、探検に励んだが戦後は海外への扉が一時閉ざされた。青年の興味と関心は生物、民族、言語、文明論へと広がった。研究内容や経歴は有名だが、特質されるべきは後輩たちへのアジテーターとしての存在であろう。自宅に毎週金曜日に家の広間で開かれた「梅棹サロン」では若い友人たちを招いての議論が夜遅くまで続いたという。梅棹はそこで学問の楽しさを説いた。特に民俗学、学際の重要性、関心があることへの自らの経験と没入を紹介して若い人たちを鼓舞した。京大に民俗学の拠点を作りたい、というのが梅棹の思いだった。また文章術についても手ほどきしたという。その後新聞記者として活躍する本多勝一や編集委員となる高橋徹も「作文技術」について徹底的に手ほどきを受けたという。
民族学博物館スタート時の館員メンバーへの挨拶も後々に語り継がれるものだった。「日本人が御先祖様に感謝するのは、山野を開拓して田を作り稲作ができるように技術開発をしてその教えをもたらしてくれたから。私たちも民俗学のご先祖様を目指そう」という内容。そして国立博物館という性質から、館員が安心して安住を貪ってはならないと諭す。そこで、競争原理の導入、区画主義の排除、研究業績の公開と評価を提示して実践した。民族学博物館のメンバーだった研究者たちはこれまでにないユニークな研究機関を目指したのである。評価指標として博士号取得、給与と発表された論文量、などという具体的ゴールを示した。「知の探検家」と評される梅棹の生涯を紹介したのが本書、梅棹の弟子を自称する筆者の梅棹への愛情あふれるバイオグラフィーである。