中学生向けの課題図書、少し軽く見ていたがトンデモナイ濃い内容。日本史を学ぶ学生が、歴史に興味を持つために4月の初めに読んでほしい。山口県日本海側45Km沖に浮かぶ見島は8平方kmの小さな美しい島。多くの畑や田んぼがあり、中でも1300年前、律令時代に開拓されたと思われる9町ほどの「八町八反」は律令制度の条里制に従って作られている。その田んぼがある場所は、陸繋砂州の形成によって主陸地と陸続きと化した、過去の島と本島の間にある楕円形の平地である。田んぼの標高は海抜1.5-2mほどあるため干拓地ではない。
不思議なのは各田んぼ一枚ずつに付属している小さな三角形の溜池、八町八反のエリア内に100個以上もあるという。大きな川がない小さな島では灌漑が難しく、淡水確保が稲作の要。細かい砂地の上に開拓された田んぼは水を張っても一晩で水分は砂地に吸い込まれ、三角形の溜池に集まるという。そのため、毎年行う代掻きは4回、それを怠るとせっかく張った水が田んぼの底から抜けやすくなってしまう。昭和になってもしばらくは、田んぼの所有者は夫婦と家族も動員して毎日三角形の小さな溜池からロープに繋げられた木製の桶で水を汲み上げて田に入れるのが日課だった。現在では見島ダムが建設され、田への水の供給ができるようになっている。同様の水換えたご(桶)は、稲作が日本列島に伝えられたと言われる中国南部でも見られるという。
どのような技術で開拓された田んぼなのか。ヒントは陸繋島の旧離れ島にあるジーコンボ古墳。「ジーコ」というのは方言で爺さん、ボは墓、つまり爺さんの墓という意味になる。古墳の発掘調査は今まで二回行われ、古墳は7世紀後半から9世紀の家族墓で、合計200基の墓、副葬品が調査発掘された。調査結果によれば、埋葬された骨や須恵器、装飾品、武具などの副葬品からみて、この島には中央もしくは地方豪族からの武官が妻、子供同伴の家族で長期間赴任していた。島における田んぼ開拓は中央政府の決めた公地公民、班田収授法、条里制に従い、技術者指導のもとに行われた。現在も残っている小さな三角形の溜池は、地下水路に沿うように作られており、田んぼの一辺は条里制の長さ109mにほぼ一致している。
歴史を紐解けば、律令制度が全国的に発布されたのは701年の大宝律令が最初。白村江の戦いがあり、太宰府や防人が置かれ、大陸と半島に対する九州と島嶼防衛が意識され始めた時期も8世紀。推測になるが、見島でもこのような時代背景があり、大和政権が派遣した中央から、もしくは長門の地方豪族の武人官と雑徭で一時的に開拓技術者、溜池の石積み技術者なども派遣された。八町八反で稲作できる米収穫量と養えるのは、当時の労働効率、収穫量などを考察すると奴隷やを含んで20-50人程度を1戸として50戸程度だったと考えられる。
現在問題になっているのは後継者問題。島に高校はなく、若者は進学と同時に島を離れ、多くが盆と正月以外は戻ってこない。条里制の歴史を残した田んぼは日本中みても珍しく、残ってほしい、というのが筆者の思いである。本書内容は以上。
島の領有、という本質的意味を考えてしまう。人が暮らすためには糖質である米とタンパク質である魚、そして野菜が必要となる。農業と漁業がその目的のために営まれる。稲作農業や漁業を、本土から30kmも離れた島で継続的に営むには50戸程度の定住が必要になる。無人島の防衛となると、地下資源や漁業権、はたまたミサイル発射装置設置などの近代的意味がでてくるが、国際的合意事項として、島嶼領有は早いものがち、ということではなく、50年以上定住する住民の存在を前提とする、それ以外の無人島は南極と同様、という定義はどうなのだろうか。