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意思による楽観のための読書日記

科学者が読み解く日本建国史 中田力 ***

日本古代史を科学する」の続編で、前書は魏志倭人伝に示された邪馬台国の場所は宮崎平野だという主張だった。断定調の書き方が気になる読み手もいると思ったが、曖昧さを排して前提条件を示し、仮説を検証していく論拠の提示方法は好感が持てた。

複雑系脳医学で名高い筆者は、DNA分析から得られるY染色体ハプロタイプによる分類を示す。アフリカ大陸で生まれた最初のグループをAとしTまで分類される。現生人類の中で最初に東アジアに到達したグループがCとD。コーカサスを中心に登場して広がったのがFで、その後の各種グループはこのFをアダムとして拡散した。その二度目の拡散で東アジアに到達したのがNとO。しかしここからは複雑系で、交雑が始まり線形的には語れないという。

大きなグループで言えば、日本列島にはDが最初に到達し、狩猟文明をベースに定着した。DにCも加えたグループは縄文時代を形成したが、Dの多くはチベットにも展開した。その後稲作文明を持って東アジアに到達したのがOのグループ。OグループはO1、O2、O3に分かれた。O1は長江河口に展開した海の民。台湾、フィリピン、オーストロネシア語族からマダガスカルにまで広がった。O1が広がる長江デルタで展開された良渚文化は大洪水で打撃を受けたが、その結果O1は海へも広がり、大陸では夏王朝へとつながる。O2は南北に別れ、O2aが南方へ展開し稲作民族の祖となり、O2bは大汶口文化と山東龍山文化の担い手となった。O1は大洪水で被害を受けるが、その後、O2の二つのグループと合流した。その後の殷王朝はO2bにより形成された。

日本列島で弥生文化をもたらしたのはO2bのグループで、朝鮮半島の南部にも広がっている。これは人々の流れを示すものではなく、O2bの民は、北方から満州、朝鮮半島に広がったグループと、中国大陸から日本列島に広がったグループがいた、という事実を示すだけである。ちなみに稲のDNAを分析すると、朝鮮半島の稲とジャポニカ米は全く別のグループであり、ジャポニカ米は中国大陸長江デルタのものと6割ほどが一致する。このことから類推できるのは、長江デルタ流域から稲作とともにO2bグループの人達が、朝鮮半島を経由せず日本列島に到達した。そのグループがもたらしたのが日本列島で最初の稲作文化であり、主として姫姓の王族に率いられた呉の民だった。それとは別のO2bのグループが、殷王朝の遺民を連れて遼河地域に逃れた箕子でその後朝鮮半島の地を開いた。特筆すべきは、日本列島に先住していた縄文文化の担い手であるDとCのグループと後から来たO2bの弥生文化の担い手たちは争わず共存した。その後も、応神王朝では弓月の民を受け入れ、律令制度の平安王朝でも百済、高句麗の移民を受け入れ、百済の民は滋賀へ、高句麗の民は関東方面に送り出した。

O3が中原の民で、現在の中国大陸での多数を占めている。O3は長江中流域で大渓文化を開いたグループと、北上して黄河中流上流域で仰韶文化、馬家窯文化を開いたグループが知られ、後者から現代中国人の40%が出身者である。

一般に、支配、被支配の分離していない集落では平等な共同体である母系社会が多く、氏族共同体から異民族を束ねる集合体へと移行する際に父系社会へ移行するケースが多い。共有から私有へ、氏族ごとの役割分化から王朝形成に向かい、男王が父系社会の象徴となる。

現在日本の天皇家の祭祀は殷王朝由来である。殷王朝文化はO2bの民により朝鮮半島に運ばれ、箕子朝鮮と新羅の神官により、沖ノ島経由で出雲にもたらされ、父系社会の象徴である現在も続く天皇家の祭祀の礼となった。日本神話におけるその祭祀の担い手は大国主命である。博多付近には姫姓王族に導かれた呉の遺民が奴国を建て、57年には光武帝より金印を賜る。その後、越の滅亡で逃れてきた呉の民は、先住民が住む博多を避け、出雲、越(高志)地方に勢力を伸ばす。その一族が後に新羅より殷王朝の神官の子孫を獲得、出雲神道の出発点となり、後には天皇家の祭祀を形成した。

そして魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の時代へとつながる。その時代は西暦239年、博多の奴国、女王国連合国、それとは別に南九州に勢力を張る狗奴国、そして出雲、越、吉備、浪速、大和平野。尾張、関東の勢力が分立していた。記紀に記された神武東征では、日向の地を出た神武船団は16年の歳月を経て宗像、出雲勢力を従えて、河内の地で長髄彦との戦いに望む。その時代は西暦260年ころとなる。姫姓王族だった神武はO1グループ、神官家だった事代主命はO2bで、藤原家の祖となる中臣鎌足は事代主命系列。中臣の姓は、神と人間をつなぐ中つ臣。崇神王朝で、一度乗っ取られた神武系統を、継体王朝で父系を姫姓一族に取り戻した。そして乙巳の変は、一度途絶えた事代主命の母系系統をも取り戻す革命だった、という仮説も成り立つ。記紀の編集は藤原一族の悲願を叶えた成果の記録だとも言える。本書内容はここまで。

本書主張には多くの異論があると思うが、本書主張の基本となるのがDNA分析と司馬遷による史記、魏志倭人伝。その二つを根拠とし、仮説を立て、推論をめぐらしストーリーを組み立てる科学的、理系的手法には頷ける部分が多い。これは一般的な論文や科学的主張と同じ、「事実・根拠、仮説、主張、その論拠の説明」という構成になるため、主張からは曖昧な部分が削られていて、読み手が圧倒される部分もある。そこは、仮説から見た主張であると、読み手が咀嚼する必要がある。思い込みによる突飛な推論との違いを知るには、読み手の判断力が必要となる。本書には、その根拠や仮説からはみ出た部分も記されているので、その部分がどこかは読み手の判断となるのだが、読み物としての興味が削がれるものではない。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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