白河法皇と待賢門院璋子(たまこ)の関係、これは祖父と孫なのだが、男女関係になってしまう。これを角田文衛が「待賢門院璋子の生涯」で璋子の生理日情報から立証してしまう、という話し。宮中には血を忌む、ということから生理日の女性は女御だろうが皇女だろうが外出させられる、その日記から調べたという。
南北朝時代の8名の天皇には「仁」の字が使われていない理由、これも面白い。南北の諍いからくる反抗で伝統の文字を名前に付けない、ということをしていたというのだ。後醍醐天皇が異形の王であった、好き放題なことをしていた、と言う話し、建武の中興があったころには神仏混交、天皇制と貴族の関係、武士の勃興など面白いものがあったのだろう。役人に武士と公家を均等に混ぜて秩序を壊そうとした。楠木正成や名和長年などの地方豪族を政権に近づけたなど。
足利時代になると、武士のエネルギーに満ちていた。王朝文化が持っていた優雅さが、武士のエネルギーで日本中に広がった。源氏や伊勢物語、古今集が日本人の好みになり、日本的と言われるすべてのものはこの時代に始まったと言っても過言ではない。観阿弥、世阿弥、町衆文化などもこの時代だ。
戦国・安土桃山時代では、影武者の話をしている。西洋には影武者はおらず、日本歴史には沢山登場する。その代表的時代が戦国時代。徳川家康は関ヶ原の戦いで死んでいて、その後は影武者が全国統一したというのもこの話。出雲の阿国もこの時代、林家辰三郎は「歌舞伎以前」で解説している。
江戸時代、日本の庶民は西欧に比べると大変良く旅行をしていて、時計、時間の概念がよく育っているとの指摘。時計が西洋から入ってくるとそれを実用的なものに作り上げていったのが日本人。機械で動く芸術品にしてしまい、王族しか使わなかったのが中国人だという。
明治になると、遊女に面白い女性が登場、「横浜富貴楼のお倉」、かのじょは遊女から料亭の女将になった女性で、遊女が今ほど悪く見られていなかった時代に、明治維新の大物である、陸奥宗光、井上馨、大隈重信、大久保利通、伊藤博文などを集めて情報流通を促進させていたのがお倉だという。大久保利通の息子である牧野伸顕もこの店に連れて行ってもらった記憶があるという。明治4年に5人の子女をアメリカ留学させている。吉益亮子、植田悌子15才、山川捨松12才、永井繁子9才、津田梅子8才、いずれも旧幕府系の藩士の子女である。彼女たちは数年の年月アメリカで教育を受けるので若い2人は日本語より英語が母国語になったという。山川捨松は帰国する際のアメリカでの講演で、当時米国と英国が対立していたのを引き合いに出し、大英帝国の植民地支配と文化的支配を批判すると米国人町衆から大喝采だったという、国際バランス感覚が合ったという話し。
近代では日本の電子工業創業期の話題から、日本はアメリカの技術に学んだが決して物まねだけではなかったという話し。アメリカ人は物まねだと言う指摘をするけれどもそうではない、ということを二人であげている。このあたりは、必死で探せば探すほど、やはりものまねだった、と言うようなもの。
しかし、この二人の縦横無尽の対談、面白いが、読んでいる方に残るのは、「丸谷才一、山崎正和は博覧強記だ」ということで、議論の筋や二人の独特の主張が頭に印象付けられる、と言うものではなさそうだ。しかし、この本をきっかけに、いくつかの本を読んでみたくなる、これは良い。
日本史を読む (中公文庫)
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