まず、1939年頃、「事件」の背景として当時の中国戦線の状況が解説される。中国は攻撃すれば一ヶ月で降伏する、という非常に甘い読み「中国一撃論」で開始されたが、泥沼化している。中国は4000キロという国境線をソ連、モンゴルと接しているため、中国と戦いながらソ連と事を構えることの危険性を説明。欧州ではドイツが防共協定から三国同盟に格上げすることを日本に提案していて、日本は三国同盟締結が英米との開戦につながることからまだ踏み切れないでいる。
ノモンハンはハルハ河によりモンゴルと満州国が国境を接する地。川の東に日本軍、西にモンゴル軍が位置している。戦略的な意味はあまりない地域であるが、国境線が曖昧なまま放置されていたことが「事件」を生んだ。国境を越えたモンゴル軍兵士がいた、として日本軍が二人の将兵を捕捉したのがきっかけだった。当時の関東軍参謀本部はソ連軍を日露戦争当時の経験から考察、近代化していた機械化部隊の実力を過小に評価していた。スターリンは戦略家ジューコフ中将を司令官に送り、一度日本軍を徹底的に叩いておこうと考える。このとき天津租界で日英が対立、日本が英国租界を武力封鎖するという事件が起こり、英米の世論が反日でわき起こっていた。このため日本側は対英米強硬派の力が強くなっていた。関東軍服部、辻の参謀コンビは、日本の参謀本部からの指示を聞かず、モンゴル国境を越えて爆撃をするため、ソ連からの反攻を受ける。ソ連軍はこのときにはハルハ河西岸に日本軍の歩兵で1.5倍、砲兵が2倍、飛行機が5倍集結していた。日本軍は通常防御できる4倍の地域に防衛軍を展開、この軍隊同士が衝突したのだから、勝敗は始める前から決していた。最前線で戦った第23師団でいえば15975人の構成員のうち12230人が損耗(戦死傷病)しており、76%の損耗率であった。ガダルカナル戦の損耗率でさえ34%とされており、いかにこてんぱんにやられたかがわかる。一方のソ連モンゴル軍も圧倒的な優勢であったがそれでも24492名が損耗、日本の兵士たちが劣勢のなかいかに勇猛に戦ったのかがわかる数字である。
そのころ日本では三国同盟加盟への可否が議論され、石渡海軍大臣は米国を敵にした場合の勝機を聞かれて次のように答えている。「勝てる見込みはありません、日本の海軍は英米を敵に回して戦うようには建造されていません」と答えている。それでも日本は三国同盟を締結、英米戦に突入するのだが、太平洋戦争開戦時の日本参謀本部の作戦課長はなんとノモンハン事件後、責任をとらされたはずの服部と辻コンビである。ノモンハン事件では司令官、参謀長は予備役編入されていたが、参謀たちは現役のまま異動させられたに留まっていたため、復帰がなった。ノモンハンの反省は戦い面でも、人事面でもなされていなかったのだ。
著者が本書を書くことを心に決めたのは、戦後戦犯を逃れ生き延びた辻政信が参議院議員となり、著者と面談、日本の再軍備を語る辻に狂気をみたときであったとしている。陸軍のこのような参謀たちを教育し「英才」に仕立て上げた仕組みは見直されているのだろうか。
ノモンハンの夏 (文春文庫)
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