節句は年に五回ある。しかしこの節句という漢字は従来は節供であるという。つまり、各節会に食事を神に捧げ共に食する、という意味だからだ。五節供は少しばかり人為的に程よく間隔を取ろうとして配置されているが、一般によく知られるのは雛の節供と端午の節供である。9月9日の節供は関西以西でも半分以内で「くんち」などと呼ばれる。7月7日の七夕は地方によっての風習の差が大きい。正月の7日は七草の粥と九州の鬼火以外にはそう大きな行事はない。そして五節供で間隔の開いた10-11月には亥の子と称して新藁を巻き立てて地面をうって遊ぶなど、九州では亥の子節供と呼ばれるお祝いがある。瀬戸内の西では藁ではなくて丸い石に多くの輪をつけたものを亥の子石と称して正月の14日に同じようなことを行う。東の地域では「とおかんや」と言って10月10日の夜に藁でっぽうと呼ばれる藁の巻立てたもので地面を売って遊ぶ。10月10日のとおかんやは東日本では重要な日であり、田の神が一年の任務を終わって山に帰る日とされ、信州では「かがしあげ」山田の案山子を田から迎え入れて屋敷の片隅の静かな場所で焼き餅を供えてお祭りをする風習が最近まであった。西日本ではこれを亥の神様と言って農業保護の神様としている。子丑寅卯を月に当てはめると、正月が寅なので10月は亥の月、ここから亥の月の10日が亥の子祭りである。
恵比寿講は、足の悪い恵比寿様が神無月なのに出雲に行けないので、百姓の神として10月20日にお祭りをする。土地によっては大黒様となり、海と陸との生産擁護をこの二神にお願いするケースもある。エビスとは元から日本にいた神様ではなく、元の神様を置き換えたものと考えられる。商業の神様を農家もお迎えした、というのが考えられる解釈である。
1日は「朔日(ついたち)」、20日は「はつか」、30日は「晦日(みそか)」などと言われる。ついたちは「月立ち」であり、月の初め、10は「とお」、20は「はた」で「とおか」と「はたか」から「はつか」と変化した。30日は30が三十路の「みそ」から「みそか」、1月30日は「初晦日」などとも言われる。2月1日は二月朔日などと続く。
春と秋に近江の国で行われる家内安全五穀豊穣の神事は「オコナイ」と言われている。春といっても2月10日、農作業の始まりであり、元は寺家から生まれた行法の義である。オコナイが残る地方は、壱岐、奈良の吉野、京都の小塩山十輪寺では正月14日に「オコナエ」がある。信州南部では修験者の手で結ぶ印を「オコナイ」と呼ぶ。遠江では猿楽がオゴナイ、天狗のことをオコナイ神と呼ぶ。遠野物語に出て有名になったのが陸中のオクナイ様で家々の神であり、羽前庄内ではオクナイ神がオシラ神である。御宮内様がオクナイ様であり、羽前の藩主酒井宮内大輔の遺徳を記念したもの、などという学者もいるという。
信州にはオネンブリという行事がある。小県郡では7月7日に川や池に水浴びに行くことをオネンブリを流すといっている。7月7日に7回オネンブリを流して7回食事をする。備中ではナヌカベといい、七日浴びと同じ事をしている。信州上田では川に笹を流して泳ぐのを眠り流しと呼び、長野の七夕祭りはネンブリ流しである。松本では7回ホウトウを食べて7回水泳ぎをすれば腹を病まないと言われている。木曽天龍ではネブチ流し、埼玉羽生ではナボケ流し、栃木足利ではネブト流し、宇都宮ではネムタ流し、鹿沼ではネムッタ流し、対馬ではネブノキ流し、熊本阿蘇神社では眠り流し祭り、越中滑川ではネムタ流し、柏崎では七夕流しとなり名前が違っているが、鶴岡まで行くとネブリ流し秋田横手でもネブリ流し、大曲はネムリ流し、生保内ではネブタ流し、能代湊は眠り流し、毛馬内ではネンプタ流しとなっている。ねぶたが燈籠になり、大きくなってねぶた祭の大燈籠になったことは想像できる。ネブタは合歓の木と睡魔を意味し、マメ、豆と壮健を願って川から海に流した。
天女が水浴びをして、その衣を隠して天に帰れなくして嫁にする、という話は全国にバリエーションがあるという。数年一緒に暮らし子供をもうけて油断した時に衣の在り処がばれてしまい、天女は天に帰る。そして豆を植えて水をやると天まで伸びて再び天女に会えるという話である。竹取物語もそのバリエーションであり、豆が南瓜や夕顔という蔓草の場合や青竹というケースもある。七夕の牽牛と織女の年に一度の出会いの話しと羽衣伝説、7月7日には七夕さまが畑に降りてきているのでその日は畑に入ってはいけない、などという信州での言い伝えなど、言い伝えどうしの結合も見られる。
1962年に亡くなった柳田国男、1981年に亡くなった宮本常一、二人を継ぐ民俗学者は誰なのか。
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