武烈大王が跡継ぎを残さずに、ライバルを皆殺しにしたまま死んでしまい、次の大王を誰にするのかで混乱した時代があった。時の有力豪族の一人、大伴金村は越前、近江で地方豪族として生き延びていた応神の5代孫とされる継体を次期大王として即位させたが、大伴をはじめとした蘇我、物部、葛城、平群、紀、膳、巨勢、阿部、坂本、春日、中臣、三輪という大臣、大連、中臣による集団合議制を形成していた13の中央豪族の意見は分かれ、継体は大和盆地に直接は入らず、樟葉、綴喜、乙訓と20年ほど場所を移しながら力を蓄えた後に磐余玉穂宮、大和盆地に入ったとされる。
つまり、今までの血統とは別とまでは言えないが、武烈までの血統とはかなり離れた皇族の中から選ばれた大王が継体。それに加えて、次の大王を決めるのに、前の大王の意思とは全く別のところで決まるという合議体制が形成され、それ以降乙巳の変までその合議体制が続いた。継体の出現以降勢力を伸ばしたのが蘇我氏で、それまでの実力勢力であった大伴氏、物部氏に加えて蘇我氏がその後の大和政権を担う主たるメンバーとなった。
継体王朝21年目に起きたのが磐井の乱であるが、磐井が政権に逆らって転覆を狙った乱を起こしたというよりも、大和政権が、新羅と結んで中央政権の邪魔をする磐井の討伐を行ったという形である。派遣されたのは物部麁鹿火、大伴金村を派遣して1年半をかけてこれを討伐した。乱後、磐井の勢力圏であった筑後には物部、大伴という中央豪族の部民、屯倉が多く置かれ、北部九州への国造制度導入が進む形となる。仁徳系列王朝の途絶、その後の紛争、そして継体即位後の混乱に乗じて北九州地方に広がっていた反中央勢力を、再び安定化した継体王朝の大和政権が北九州への支配力を強化したのが磐井の乱と言える。
磐井の乱後、すぐに継体大王が死去、その後を誰が次ぐのかで、更にひと悶着あったことがわかっている。大伴氏、物部氏が推した安閑、宣化と、蘇我氏が推した欽明との二朝並立である。継体の没年記述が記紀それぞれが異なり、安閑即位年も不明確、そして百済本記に日本の皇子が二人なくなったという記述がある。安閑の即位に反対した蘇我氏がクーデターを起こして(辛亥の変)欽明を即位させたという説が唱えられている。ここでも、大王の意思よりも実力のある豪族が大王を決めるという動きがある。この動きは乙巳の変を経て天武、持統で律令制度が確立される頃まで続くことになる。
継体の即位が異例であったことはその後の天皇即位にも影響を与えた。後鳥羽天皇が安徳天皇の都落ちとともに、譲位するより前に三種の神器もなしに即位するとき、右大臣であった九条兼実は継体の事例があるではないかと主張し後鳥羽即位の正当化を図った。愚管抄の筆者慈円は、優れた臣下が天皇を立ててその後見となる事例として継体と大伴氏、陽成天皇を譲位させ光孝天皇を立てた藤原基経、称徳崩御後の藤原永手と百川が光仁天皇を立てた例を上げている。つまり正当性に疑念があるような天皇が即位するに際しては繰り返し思い返された事例となっていたのである。それでも万世一系を唱える天皇であり、天皇家以外の血筋からの即位はない、そして臣下による天皇即位者決定は世の定める方向性に合致していれば認められてきたのである。道鏡、足利義満など王族以外の人物による即位はことごとく撥ねつけられることになる。本書内容は以上。