松ちゃんの『やりっ放し やられっ放し』

あなたが気になりだしてから 世界が息づいてる(松任谷由実『緑の町に舞い降りて』より)

んなもん、そこら辺に転がってるのよ。

2007-01-02 15:56:13 | Weblog
私は、幸せだろうか。

と考えることがしばしばある。
突き詰めていくと…「幸せってなんだっけ?」である。

私の今の生活は、学生という身分で
食にも困らず
欲しいものも、頑張れば買えている状況で、人間環境にも恵まれていると思う。

特に私など、物に対する執着が激しく
だから、今住んでいる部屋にモノが比較的に溢れているのであるが
そういう部屋の中に居る、というこの状況に自分が埋もれていることを
自分としては、有り難味もなんもなく、当たり前の様に受け入れているのが

私がいつまでも、駄目で、子どもなところであろう。
一方で、自分がとても幸せと感じるのは
自分の意図した表現で人を感動させた時であろう。
(感動とは、勿論、いろんな発現がある。悲しむのも、笑うのも感動である、と私は考えるが。)
または、人に感謝された時など、そんな些細な事にも「幸せ」を感じられる事もあるし…

結局、どんなにお金を手に入れても
どんなモノでも買えても
自分が幸せを感じられるのは、対人関係の中のことである。
だから、幾ら生活水準が高くても、決して幸せとは言えない、と思う。
(お金持ちになれそうもない自分の僻みでは、多分ないだろう。)
だって、だって…

当たり前に超セレブとは程遠い私、の学生生活の中でも
「幸せ」を感じる事はあるからです。
日本は、物質的にはとても裕福である。が、とても幸せな顔をしている人は居ない。
幸せな顔をするのは、感謝であったり、愛であったり、恋であったりと
先に述べたように、人間関係の中のほんの些細な出来事なのだろうと今にして思う。
いかなる生活水準においても、等しく幸せが感じられるのです。
しかし、私達は、面倒くさがり屋さんだから

幸せに感じられる瞬間をお金で省いているし、そうしてしまう傾向にある。
つまり、「便利さ」 を追求すがために、幸せを感じる機会を通り越していると思う。
便利とは、イコール…分業である。
私たちにとって煩わしいことと
既に、それを専門に、高度な技術や芸術を施してくれる人がいるから
財力にものを言わして、それを利用してしまう。

しかし、それによって得られた時間や労力を有意義に使えているかどうかは
果たして、疑問である。
例えば、X'masケーク(ケーキ)を、買うのはいいが
空いた時間を使って、何か幸せ一つ見つけれるだろうか。
それならば、一から材料を揃えて、みんなでわいわい試行錯誤してケーク(ケーキ)を

作ったほうが、余程、人間的である。
(別に、包丁とか鍋を一から作るなんて言ってない。食材も買えばいい。
                 それを言い出すと、年レベルになっちゃうから。)
だから、私は、ハワイに行ったとき、夕食はほぼ、9割方、自炊したが、本当に良かったと思える。
それは、宿泊した部屋がコンドミ…何とかだったから、必然的にそういうことになったのだろうけど

ただ外食で済ますよりは
部屋の中でも、ワイワイ笑いながら料理を作ったのは、結構面白く、本当に良かったのである。
ま、要するに、下手に便利さを求めるよりは

ちょっと骨を折ってでも、一からモノを作ったほうが、面白いということである。
(忙しいならしょうがないが。)

省いた時間をいかに有効利用できるかが、便利の真髄だと、今にして、思ふ。

よって、#91君あたりとガチでケーク(ケーキ)などを作ってみようと思っているのだが
まだ言い出せてない。個人的にも、本箱などを作ってみようと思っているのだが…

いかんせん、忙しいのです。後手後手。