まさかこうやってまた更新してるってのが、自分ながら本当に情けない...。
プロバイダーには早速インターネットの解約を申し入れたのですが
なにやら、あと少しの期間だけ使えるようなので。
携帯電話って現代の先端に生きる多くの我々には、無くてはならない存在になっているのだが
時にそれが面白く思えることがある。
自分は高校卒業まで携帯電話無しで過していたし
昔の小説等の中では、知人に会うのにぶっつけで家を訪れる情景が描かれている。
【何処何処で待ち合わせ】などというのが手軽に出来るようになったのはごく最近なのではないか。
と疑問に思ったのである。
こうも頻繁に待ち合わせをするには
簡単な通信手段が手頃に使える環境が必要なはずだからだ。
生まれた時は勿論携帯電話など使わない。
なのに
たかだか10年20年経つと、いつの間にか携帯無しでは生きれなくなっているのだ。
この不思議が私には実に面白い問題なのである。
携帯電話が無いと生き難い(又は、生きていけない)というのは
ただ単に『慣れ』というだけのことなのだろうか。
『慣れに違いない』という考えは
果たして、過った希望的観測なのではないかという不安がある。
友達と会うという時には携帯電話が必要な現代の人間関係と
それ無しでも友達と会えた昔の人間関係と比較したら
果たして、人と人の間の、【関係】自体の変質なのか。
そうだとして、それは濃くなったのか薄くなったのか。
携帯電話が無いと不便と感じるのは、退行なのか。
(携帯電話自体は、人間文明の賜物のはずであるはずだが…)
あるいは、【人間単位】で変わってしまったのか。
または、先に述べた『慣れ』という一言で全て片付けられるような
考えるに足らないような、実はとても下らない事だったりしてね。
否、こんな長々と述べてきたが、実は何も変わってないのかもしれないし。
これらの疑問を究明する事が当面の私の研究課題なのだ。
(研究課題って何やねんって話なのですが)
まぁ兎に角、そういう事をただ疑問に感じただけなのです。誰かご意見を。
それはそうと...これでおわり。ほんとにおわりだから。
『おわり』って大層に題打っておいて更新している節操のなさが自分でつくづく嫌に思う。
さっきから一文字打つ毎に自分を情けなく思ってんのよ。いい加減これが最後。では。
プロバイダーには早速インターネットの解約を申し入れたのですが
なにやら、あと少しの期間だけ使えるようなので。
携帯電話って現代の先端に生きる多くの我々には、無くてはならない存在になっているのだが
時にそれが面白く思えることがある。
自分は高校卒業まで携帯電話無しで過していたし
昔の小説等の中では、知人に会うのにぶっつけで家を訪れる情景が描かれている。
【何処何処で待ち合わせ】などというのが手軽に出来るようになったのはごく最近なのではないか。
と疑問に思ったのである。
こうも頻繁に待ち合わせをするには
簡単な通信手段が手頃に使える環境が必要なはずだからだ。
生まれた時は勿論携帯電話など使わない。
なのに
たかだか10年20年経つと、いつの間にか携帯無しでは生きれなくなっているのだ。
この不思議が私には実に面白い問題なのである。
携帯電話が無いと生き難い(又は、生きていけない)というのは
ただ単に『慣れ』というだけのことなのだろうか。
『慣れに違いない』という考えは
果たして、過った希望的観測なのではないかという不安がある。
友達と会うという時には携帯電話が必要な現代の人間関係と
それ無しでも友達と会えた昔の人間関係と比較したら
果たして、人と人の間の、【関係】自体の変質なのか。
そうだとして、それは濃くなったのか薄くなったのか。
携帯電話が無いと不便と感じるのは、退行なのか。
(携帯電話自体は、人間文明の賜物のはずであるはずだが…)
あるいは、【人間単位】で変わってしまったのか。
または、先に述べた『慣れ』という一言で全て片付けられるような
考えるに足らないような、実はとても下らない事だったりしてね。
否、こんな長々と述べてきたが、実は何も変わってないのかもしれないし。
これらの疑問を究明する事が当面の私の研究課題なのだ。
(研究課題って何やねんって話なのですが)
まぁ兎に角、そういう事をただ疑問に感じただけなのです。誰かご意見を。
それはそうと...これでおわり。ほんとにおわりだから。
『おわり』って大層に題打っておいて更新している節操のなさが自分でつくづく嫌に思う。
さっきから一文字打つ毎に自分を情けなく思ってんのよ。いい加減これが最後。では。
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