St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

日記

2014-07-11 18:54:04 | Weblog
0 多忙。順番通りの詩の更新のみ。写真は、6/15(日)のコスモス愛知歌会参加の折に撮影。
アントニオーニの映画「情事」を見始める。
併せて、リチーの「映画のどこをどう読むか」を読み始める。

1 家にあるCDによるクラッシック紹介は2枚。前回を踏襲。
「サン=サーンス:交響曲第3番」(アンセルメ;スイス・ロマンド管弦楽団;ロンドン)
「リパッティの芸術5:主よ、人の望みの喜びよ」(リパッティ(ピアノ);EMI)

2  “Taylor Swift”「古今集・新古今集評釈」(松尾聡)をマックで読む。YoutubeのMITの“open course”にすっかり嵌る。“量子力学”のコース。もう15回。

アルスの主任司祭聖ヴィアンネの本「聖ヴィアンネの精神」(モンナン神父)から。

“信仰と愛徳によって、御言葉がわれわれの中に住まい給うとき、われわれの霊に注ぎ給う神的光に照らされた知性の徳がある。”
“「心の眼を清めて、真の光に向かって飛翔するには、世のわずらいを軽んじ、身体を抑制し、痛悔の心を抱き、涙を注がねばならない・・・神の賛嘆すべき本質とその無垢なる心理とを黙想し、純なる意向をもって熱心に祈り、神に於いて喜び、天国を熱烈に望まなければならぬ」”
(p.13~14)

昂じていた古典への傾倒が遂に、次の6書の比較購読に至らしむ。
「完全マスター古典文法」「文語文法詳説」(湯沢幸吉郎)
「万葉集講座1」(久松潜一編)「萬葉集研究(上)」(斎藤茂吉編)
「王朝の文学」(松尾聡他)「古典再入門」(円地文子他)
久松先生の「講座」は2種類ある様子。有精堂のもの。
また、調べ物のために、
「日本の古典」(北原保雄編)「日本文学鑑賞辞典古典編」
「王朝文学史」(秋山虔編)「恋する伊勢物語」(俵万智)
を引く。

4 半年程前に「現代詩手帖」に投稿したけど採られることのなかった詩の紹介。3回目。前回のに書き足していきます。一定のレベルに達しない詩ではありますが・・・。

“「昼」 白い小さな指先から 零れ落ちる サラサラした細かい砂 アポロニウスの円筒形 破損した硝子 //振り子細工のように 時を刻んで来た その機械はもう鳴らない //何千もの部品からなる 精密なゼンマイ装置 淀みのない時を刻み 傷みの欠けた歴史を繰り返す 空間の歪み そして 抜けるように広い青空//補正したようにも 補正しようのない 鋭い悔恨 戦禍にも その村は焼け落ちず・・・ 空間が そして 後に時間が後退して 仄かな祈りが・・・ “

まるで中弛みの感。「悔恨を補正する」とはどういうことなのだろうか?祈りが「仄か」も・・・

5 「人間精神の名誉のために」(J.デュドネ著;高橋礼司訳;岩波書店)から、ハミルトンの四元数についての引用。前回の続き。(p.139から部分的に引用)

“これらの規則によって、実際四元数a+bi+cj+dkに対する<絶対値の法則>が成り立つ、実際
(a+bi+cj+dk)(x+yi+zj+tk)
=(ax-by-cz-dt)+(ay+bx+ct-dz)i
 +(az-bt+cx+dy)j+(at+bz-ct-dx)k
(a^2+b^2+c^2+d^2)(x^2+y^2+z^2+t^2)
=(ax-by-cz-dt)^2+(ay+bx+ct-dz)^2
 +(az-bt+cx+dy)^2+(at+bz-ct-dx)^2
となる。実はこの恒等式はすでにオイラーによって発見されていたものである。“

“四元数がたとえば群の線型表現とかリー群の構造の理論などに自然に介入してくることが理解されるのは、19世紀の終わり頃になってである。ハミルトンの時代にはこれらの理論は存在すらしていなかったから当然である。”

“6)非可換結合的多元環と非結合的多元環
これらの理論の源は19世紀の中頃にあって、四元数体のように結合的ではあるが非可換な環または結合法則は満たされないのがその分類であるが、さらに別の公理を追加して限定することが多い。これらは<抽象>群論、リー群論、代数的位相幾何学、関数解析学に介入してくる。“

次の“Varadarajan”に進む予定。

6 “淡々と日々過ごしけり郷一峰(ごういっぽう)”
「一応作りました」というだけの作ですが・・・。 

7 “1939:An error,”today abundantly widespread,is disregard for the law of human solidarity and charity,dictated and imposed both by our common origin and by the eqality in rational nature of all men,whatever nation they belong to.This law is sealed by the sacrifice of redemtion offered by Jesus Christ on the altar of the Cross to his heavenly Father,on behalf of sinful humanity.“
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939:Thus one would hope that all those who,to some degree or other,are responsible for ensuring a ”more human life“ for their fellow human beings,whether or not they are inspired by a religious faith,will become fully aware of the urgent need to change the spiritual attitudes which define each individual‘s relationship with self;and all of this in view of higher values such as the common good or,to quote the felicitous expression of the Encyclical Populorum Progressio,the full development ”of the whole individual and of all people.“
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
9 年間第14金曜日福音朗読。マタイによる第10章から。

“「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」”
-(つねに聖霊が導いてくださる。宣教は聖霊の御業なのだ。宣教の働き手は聖霊であって、私たちはそれに協力するにすぎないのだ。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年7月11日
                       乗倉寿明記す