自分の出自を 調べて平成26年正月を過ごしていますバタ屋トーナイ日記2014.1.03 朝
吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)
とうない では、大吉備津日子命と書いてるの
よく解からないんだよ
以下は 岡山県南部の 吉備津彦神社からの文章なの
【注)当社が昔、気比太神宮と言われていたことを伝承者が伝えていましたが、古文書を松田氏の部下に焼かれる前までは、上記の社名があったと思います。明治二十年項まで大守大 藤内とうない家が宮司をされ、その後昔の分家延友の大守家が受け継ぎ明冶三十年項宮司をされ、
当時は大社吉備津宮吉備津神社
(太郎太殿)と呼ぱれていた。】
大 中山神社 が 歴史的にも もしかして古い可能性も捨て難いような
吉備津彦神社のHPによれば 以下のようなので 吉備津彦命は大吉備津の息子さんと 書いてある
大吉備津日子命の親が 孝霊天皇ですから
↓
【吉備津彦命(きびつひこのみこと)
大吉備津日子命の御子、稚武吉備津彦命
孝霊天皇(こうれいてんのう)
大吉備津日子命のお父上が、第7代天皇】
*****
以上 大きな古い神社のHPから 少し貼り付けましたが
吉備国 美作国 の 古代を追ってると とても難解なのです
1/2は 出雲の手前 岡山県最北端の蒜山高原に 片道240kmも走っていってきました
蒜山高原の 一つのトンネルの 向こう側が 出雲の国だったのかね その山のこちら側が 美作の国(吉備国)だったのかも 知れない 島根県と鳥取県 と 岡山県3つ国の国境の辺りは
今は 雪が積もって山道は走り辛いのんですが 春になればねいいよねこの場所
ここが 邪馬台国だった と 言われても
ああ そうでしょうね という風な雰囲気の場所です
歴史をぜんぜん知らない者が 古代歴史ロマン やって楽しんでいます
とうないの 家の白馬です 古くて 馬の絵なのか なんなのか 解かり難いと思います↓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/6b/34fc7033565adb20851bdaed221349f5.jpg)
以下の印は ワシの先祖が この印鑑を使って何か
神主の真似事をやっていたのだろうと思うの
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/23/95d641b4c7d5ae0b0cdebc59c3196107.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/ed/10a1975963028335d160a8d0360d18ef.jpg)
神宿村 大中山
とうない まこと
吉備国とは なんぜよ
以下は 昨年からのメモ書き メモ↓
■『陰陽五行と日本の民俗』からのなかで,『鉄山秘書要約』を次のように解析している。
「七月は申(サル)月であるから, 金屋子神は申月申刻に天降りされた。申は金気の始め, また七日の七も七赤金気で, 金気の象徴。次ぎに西方に向かって白鷺に乗って行かれたというが, 西・白・鳥はいずれも金気である。このように時間・空間・色彩・十二支において,金気ずくめの金屋子神は,「土生金」の理で,土が二つも重なっている桂の木に止まり,最上の呪物土気である死体,それも生類の霊長としての人間の死骸を最も好まれる。それらすべて一部の隙もない五行の理の応用であり,反映であって,昔の日本人が如何に五行の呪術に凝っていたか,歴然たるものがある。同時に裏を返せば,そこに見られるのは自らの仕事に対するあふれるばかりの忠誠心であって,後代の私どもは深く感動させられるのである。」
このことからも,
①楢原邑に始めて「中山大神」として示現した神は,午(ウマ)の最盛期を選んで出現したことから,この神が「火」を中心とした神格と認識されたとして間違いないであろう。②一体どのような火であるか,火の種類については今のところ明確ではない。
しかし, この神が
東内(藤内)の矛殿・五座の鉾石など鉾を属性としていることからも,鉾などの武器製造に不可欠な金属溶鉱・鍛治の火(炉)を象徴していた可能性は高いと考えられる。
■ 東内(藤内の祖)に神が示現したのが慶雲三年,丙午の年の五月上旬(二の午の日)とある。二の午の日がわたしには解らない。当時は月を上・中・下旬とせず,上・下旬に二分していたものなら「二番目の午日」はおさまる。しかし,旬を原則どおり十日単位とした場合には,十二支を一巡とする午日が二度現れるはずがないのだが。この点については,是非どなたかにご教示をお願いしたい。
とにかく,この年の干支(カンシ)は丙午であって, 日時ははっきりしないが,日の方は干支の干が不明なるも支は明確に「第二の午日」と言う。ちなみに,旧暦の五月は夏の盛りの「午」月でもある。すると, この神は午の年・午の月・午の日に,白馬(午)に乗って現われたことになる。ここまで午が揃うと, 出現時間も当然「午の刻」の可能性も高いのではないか。午の刻は真昼-正午である。こういった干支にぴったり合わせた示現伝承や,五座の鉾石伝承からも,「陰陽五行思想」の濃密な土壌のなかから,この神が誕生したことは間違いない。
鉾石は五個あったと考えられ,鉾の大小は置くとして中央と東西南北の四方に,鉾が立てられたものであろう
とにかく,この年の干支(カンシ)は丙午であって, 日時ははっきりしないが,日の方は干支の干が不明なるも支は明確に「第二の午日」と言う。ちなみに,旧暦の五月は夏の盛りの「午」月でもある。すると, この神は午の年・午の月・午の日に,白馬(午)に乗って現われたことになる。ここまで午が揃うと, 出現時間も当然「午の刻」の可能性も高いのではないか。午の刻は真昼-正午である。こういった干支にぴったり合わせた示現伝承や,五座の鉾石伝承からも,「陰陽五行思想」の濃密な土壌のなかから,この神が誕生したことは間違いない。
鉾石は五個あったと考えられ,鉾の大小は置くとして中央と東西南北の四方に,鉾が立てられたものであろう
■和銅(日本の時代)
和銅(わどう)は、日本の元号のひとつで慶雲の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。
· 和銅8年9月、霊亀に改元。
続日本紀 卷四には、武蔵国 秩父郡(現在の埼玉県 秩父市黒谷)から、和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊が発見され朝廷に献上されたことを祝い、年号が慶雲から和銅に改められたと記されている。
和銅期
和銅元年2月 - 平城の地に新都造営の詔がでる。10月、伊勢神宮に平城宮造営を告げる。
☆ メモ 美作市 平福の遺跡 神宿の東500mの山 その裏がイチノタワ
古事記を読む 美作にはユダヤ人が居たのでしょうか
というブログを一部コピー 司馬遼太郎さんとも親しい方のようなの・・
「吉備古代史の未知を解く」は、間壁忠彦・間壁葭子氏の著書の名前です。両者は倉敷考古館学芸員であり、館長も勤められています地元の研究者であるだけに、内容は素晴らしいものです。外に、間壁忠彦の「石棺から古墳時代を考える」の著書があり、吉備の歴史だけではなく、石棺を通じて、全国の勢力分布を述べておられます。
すべてを紹介するわけにいきませんので、その一部を紹介しますと、「吉備古代史の未知を解く」の162ページに、「久米の子の里」と題して、奇妙な陶棺のことが書かれています。陶器製の棺おけのことです。九州では、甕を二つ合わせた形の甕棺が有名ですが、ここの陶棺は、土師質亀甲形と須恵質および切り妻家形の二種類とその他分類不明の陶棺に分かれます。全国に分布はしているらしいですが、その7~8割は岡山県に分布し、其の又、7割は美作とよばれた地名で発見されています。
「何か特別な生産にたずさわる集団と、関係がある棺ではないか、と見られている面が多い」と微妙な表現をされ、須恵器窯跡と関係、土師質陶棺の場合は、土師部との関係、鉄の生産が盛んであった土地柄、鉄生産者との関係、屯倉との関係などを挙げておられます。当然、他の人も精力的に研究し、成果を発表されておられるらしく、それらに負けられない気持ちがあったのではないでしょうか? 「久米の子の里」のページに43ページも費やされています。この項のはじめのところで、著者は「陶棺の存在に対する結論など、こうした本の上で簡単にでるものでないことを意味していることでもあるだろう」と慎重に、駄目押しをしておいて論をすすめておられます。
それに対して、私は簡単に、この陶棺はユダヤ人の棺おけで、しかもユダヤ人は絹を東郷湖まで運んでいるのだと前に述べ、それどころか、その絹はローマまで運ばれてい
るのだと書きました。この凄腕のプロをくつがえすことはとても、私には無理ですが、著者は、ここで発掘された陶棺の時代を次のように述べておられます。「この地域の後期古墳は、六世紀中頃に築造が始まり、七世紀末まで使用されており、時には七世紀中頃以降でも築造され、中には八世紀の火葬骨を追葬しているものもある」
私は、この部分が良くないのではないかと思っています。最近、岡山県で鉄を製造した遺跡が発掘されていますが、私はどれも、200年ぐらい遡らなければならないのではないかと思っています。そうしますと、古事記に書かれているスサノオが襲撃した製鉄所に一致します。(No62~65) 陶棺が発掘されたときに、なにを基準にして、使われた年代を決めるのでしょうか?
普通に考えても少し、おかしいと考えられませんか? 「六世紀中頃に築造が始まり、七世紀末まで使用されており」と書いておられますが、これですと、二代しか生活していなかったことになります。仮に北海道のように、明治時代に入植されたとします。帯広の原野では、一代が暮らすだけでも厳しかったそうですが、私の友人は、三代目で、200頭を超える乳牛を育てています。美作は三代ぐらいで逃げ出さなくてはならないような所とは思えません。それどころかずっと、子孫の方は現在も生活しておられると思います。
この陶棺は大きなもので、陶棺を作る技術がなかったのではないでしょうか? 陶棺は、6~7世紀と固定しているために、また、歴史に詳しいために、ユダヤなどの発想はとんでもないものだと思います。
岡山県英田郡美作町平福から発掘された切妻形の陶棺には、寒羊と思われる尻尾の太い二匹の羊を連れて羊の顎ひげを触っている人物が描かれているそうです。これは日本にはいなかった動物と思われます。子羊は聖書にでてくる神の使いだそうです。又、寒羊は、イスラエルが原産でユダヤと関係がありそうです。が知識として知っていたので、描いたのかもしれません。よって、描いた人は異国の人であったと考えていいと思います。…….
「吉備古代史の未知を解く」は、間壁忠彦・間壁葭子氏の著書の名前です。両者は倉敷考古館学芸員であり、館長も勤められています地元の研究者であるだけに、内容は素晴らしいものです。外に、間壁忠彦の「石棺から古墳時代を考える」の著書があり、吉備の歴史だけではなく、石棺を通じて、全国の勢力分布を述べておられます。
すべてを紹介するわけにいきませんので、その一部を紹介しますと、「吉備古代史の未知を解く」の162ページに、「久米の子の里」と題して、奇妙な陶棺のことが書かれています。陶器製の棺おけのことです。九州では、甕を二つ合わせた形の甕棺が有名ですが、ここの陶棺は、土師質亀甲形と須恵質および切り妻家形の二種類とその他分類不明の陶棺に分かれます。全国に分布はしているらしいですが、その7~8割は岡山県に分布し、其の又、7割は美作とよばれた地名で発見されています。
「何か特別な生産にたずさわる集団と、関係がある棺ではないか、と見られている面が多い」と微妙な表現をされ、須恵器窯跡と関係、土師質陶棺の場合は、土師部との関係、鉄の生産が盛んであった土地柄、鉄生産者との関係、屯倉との関係などを挙げておられます。当然、他の人も精力的に研究し、成果を発表されておられるらしく、それらに負けられない気持ちがあったのではないでしょうか? 「久米の子の里」のページに43ページも費やされています。この項のはじめのところで、著者は「陶棺の存在に対する結論など、こうした本の上で簡単にでるものでないことを意味していることでもあるだろう」と慎重に、駄目押しをしておいて論をすすめておられます。
それに対して、私は簡単に、この陶棺はユダヤ人の棺おけで、しかもユダヤ人は絹を東郷湖まで運んでいるのだと前に述べ、それどころか、その絹はローマまで運ばれてい
るのだと書きました。この凄腕のプロをくつがえすことはとても、私には無理ですが、著者は、ここで発掘された陶棺の時代を次のように述べておられます。「この地域の後期古墳は、六世紀中頃に築造が始まり、七世紀末まで使用されており、時には七世紀中頃以降でも築造され、中には八世紀の火葬骨を追葬しているものもある」
私は、この部分が良くないのではないかと思っています。最近、岡山県で鉄を製造した遺跡が発掘されていますが、私はどれも、200年ぐらい遡らなければならないのではないかと思っています。そうしますと、古事記に書かれているスサノオが襲撃した製鉄所に一致します。(No62~65) 陶棺が発掘されたときに、なにを基準にして、使われた年代を決めるのでしょうか?
普通に考えても少し、おかしいと考えられませんか? 「六世紀中頃に築造が始まり、七世紀末まで使用されており」と書いておられますが、これですと、二代しか生活していなかったことになります。仮に北海道のように、明治時代に入植されたとします。帯広の原野では、一代が暮らすだけでも厳しかったそうですが、私の友人は、三代目で、200頭を超える乳牛を育てています。美作は三代ぐらいで逃げ出さなくてはならないような所とは思えません。それどころかずっと、子孫の方は現在も生活しておられると思います。
この陶棺は大きなもので、陶棺を作る技術がなかったのではないでしょうか? 陶棺は、6~7世紀と固定しているために、また、歴史に詳しいために、ユダヤなどの発想はとんでもないものだと思います。
岡山県英田郡美作町平福から発掘された切妻形の陶棺には、寒羊と思われる尻尾の太い二匹の羊を連れて羊の顎ひげを触っている人物が描かれているそうです。これは日本にはいなかった動物と思われます。子羊は聖書にでてくる神の使いだそうです。又、寒羊は、イスラエルが原産でユダヤと関係がありそうです。が知識として知っていたので、描いたのかもしれません。よって、描いた人は異国の人であったと考えていいと思います。…….
凄いことを 書いてあると思うのん
楢原の神宿 出自の とうない まこと
この人の原稿なのかな?
他でも 検索が掛かるの
以下コピー
美作では兵隊に守られて天皇一族はいたようですが、ユダヤ人も一緒にいたようです。しかし、
天皇家の勢力が強かったのですが、713年に美作を分離した理由は、それまで、中国人の勢力が美作の範囲だけ確実になったのではないでしょうか?
これと同じように、天皇の勢力が強かった丹波においても、中国人の勢力が強くなった丹後だけが分離されたのではないでしょうか?
天皇家の勢力が強かったのですが、713年に美作を分離した理由は、それまで、中国人の勢力が美作の範囲だけ確実になったのではないでしょうか?
これと同じように、天皇の勢力が強かった丹波においても、中国人の勢力が強くなった丹後だけが分離されたのではないでしょうか?
· 和銅3年3月 - 藤原京から平城京に遷都。藤原氏、興福寺の造営を発願する。
· 和銅4年10月 - 蓄銭叙位令を定める。
· 和銅5年1月 - 太安万侶により古事記 完成、撰上。
· 和銅5年9月28日 - 出羽国を建てる。
· 和銅6年4月3日 - 丹後国 美作国・大隅国を建てる。
☆官稲混合による正税とは 年貢というか 稲穂を集める役目 駅起稲 神税 西暦700年過ぎの頃