銅相場は仮定計算では 16日6時 815円で好調でした
中国の 旧正月入りで 世界の銅の消費が下がるとの 見方と
米国の経済は悪くない という見方と 資源は せめぎあいで やや 上がるのでは という勢いが強い以下は 変な人間でもある ワシの 古代史 鉾立て神技の東内の話しです そうですねん 自らの出自も追ってみてるの
東内 と 有木(きは一時期は鬼と表した可能性有り)氏 との微妙な関係
古代歴史研究家の方などの資料から
勉強中の元 吉備国の出自 とうないまことブログ
----西暦700年過ぎころからは 美作国(岡山県北部)に 住まいし
現在は その家の跡取りを自認 バタ屋トーナイ
とうない まこと と申す者の自分調べ日記です
此の先生の記述に よれば 魏志倭人伝(西暦280-290)には その国には 牛 馬 豹 羊 鶏 無し と 書かれている 鶏は違うかもしれない
昔という辺に右に鳥です 私は読めない です
西暦300年まで頃は 馬は確実に 日本列島には 不在でした
これは 中国の魏志倭人伝からですので
外国の書物なので 国内の権力者の都合では書けないので ほぼ間違いないと思われる
馬の遺跡は西暦450年頃のものが 宮崎県で出土し その後の時代 吉備国 岡山や 近畿でも 特に多く みられる
ここで出てくるのが →
突厥
(漢音:とつけつ、とっけつ[、古テュルク語(英語版)トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。
582年には内紛によって東西に分裂した。
騎馬民族が 580年過ぎに 日本に渡来してきている可能性が高い
突厥国(とっけつ) 鉄の技術を持った 遊牧民族でしょう
トルコ辺りから モンゴル高原あたりに 移動も馬でしていた民族になるのだろうか?
突厥国(とっけつこく)から 九州を経由したのか
日本海側の 但馬の国辺りか どうかは さだかではないが
その辺の時代に岡山県に 住み着いたような憶測ができると私も考えます
吉備の有木氏の元は はりまのうじかのあたい と あります はりまのうじかのあたい は 大吉備津彦の兄であり ひこさめまの命で その祖であると 古事記にはある
有木氏の実力は凄かったと思います
吉備の中山から 有木氏が社家として 元禄の頃まで 長期間 多分1000年以上も 宮司職でした
古代には 祭祀(さいし)権利を持ったものが
政治の権力を持っていたと思われます
尚 岡山県 北部一帯の 一宮 中山神社の
荷先(のさき)祭主は 有木氏と
そうなの 私の先祖 東内なの
苗字の変更の許可は
和銅6年713年に 出された勅令なのかな?
『きない と七道との 諸国の郡、郷の名は 好き字を着けしむ』 とあり 有鬼→有木となったと 書いている
なので ワシの苗字も その時代に
藤内から 東内へと西暦713年に 変更になった と思われる
魏志倭人伝でも 有鬼(うま)国と 鬼奴(きな)国が 出ているとのことです
水軍とも関係しているように この学者さんは書いている
しかし その割には うちの ご先祖は 財産は残してくれては いない事は寂しいものですが
それは それとして置いておきましょう
昨日も 岡山県に 大阪から帰って なにやら ごそごそと 調べてみています
鉾立て 石なども 残っているものは 間違いない
史書に 東内の五家に 授かった というが 幾ら村を調べても4軒しか 今は その家が無いので
探しまくって やっと 70年ほど前に 一軒が 町に出ていって 孝さん って 言う名前の家か 祠も取り壊してしまってるじゃない 5鉾 だから 家を 潰したらあかんのんです が しかし 事情もあったようで仕方が無い 血が途切れる と言う事もある
昨日は その昔のもの 古い非鉄金属製の鉾立ての飾りのものに 王家の紋 菊のご紋が 入れて戴いたものは ワシ 確認しました 嬉しいじゃない
これは かなり 古いと思う
1300年も前には ワシの先祖は お上にお尽くししたのでしょうね 多分 この数百年は なにも 貢献が できず 百姓をやって生き延びて いたのでしょうが 古くは 認められていたと思います
だいたいが ぼんやりと 見えてきましたよ
菊のご紋の 鉾は 嬉しい とっても 嬉しい
幼馴染の 秀樹の家のも 見せてもらいたいね
彼の家は 今でも 仏教はせずに 神道 一本やりで 1300年やってるわけで 家の言い伝えが しっかり守られてる
そんなら 荒神さまの 村の 山の祠は なんなの?って ことにも なるのですが
そや 亥の子の石は そこに 保管する事にも村でなってるはずなのや 荒神さま って 言えば また 違ってもくるぞ そやろ この荒神様は 島根に その名の神社を確認してるの これは また 違う気がするの
時代が 流れているからね そうなんや 後醍醐天皇の時代にも これは日本の南北朝時代 後醍醐天皇は 島流しにあって その道中にも 出雲街道を お通りになられた 旧跡も多い そのお種も
なんか ご子孫が うちらの市にも おられるとか おられないとか 聞いているの これって ヒデチャンに 此の前 教えて貰ったんや
どんどん 近代に近寄れば ヒデチャン の先祖は 宮本武蔵の 家系に 婿にいった とか 言ってた
岡山は 歴史が 深いので 面白い 宮本武蔵の時代までならば 追うことは 簡単なのですがね
それはお寺に行けば 比較的簡単に解かると思う
時代を遡ると 面白いよ この前から NHK連続ドラマでも 播州が ロケ地なのかな これって ワシの 祖母が 赤松系の出なので NHK では 赤松氏 悪役で 登場しているの
赤松 という 家は 激しい戦闘をする家系です
鎌倉に攻め入った 先陣を切った家なのでは ないかな と 記憶してるんや
兵庫県でも ワシらの市と隣の作用郡とか
上月(こうづき)の城 あたりが 本拠なのかな?
よく調べていないので うかつな事は書けないですね 三日月もそうだと思う
武蔵の小説で 村を出て 武蔵が 三日月村に 翌朝について とか あるじゃない
一時期 美作地域も 赤松系に 抑えられた時代もあったのだろうね
たぶん 今でも 赤松系は 闘争本能が満杯の
血の流れを持っておられると思います
赤い鬼の イメージがワシには なんでか あるの
そうなのよ 長い年月をかけて 日本人の その それらしさが 作られていったのよ
とにかく 時の政権に逆らってはいけない
耐え忍んで 生き残らねば ならないの
(自分に 言い聞かせている---- )
しかし 自分で感じるには ワシの自分の激しい性格は どこから きてるのじゃ? とか 考えると それは血流なのよね
多分 1本線が切れたら 人を殺すような 気がする ところがあるの
それは 自分で自分に そう 感じてる
なので 何を言われても 忍耐や と 言い聞かせている場面が 25歳くらいまでは あった----
いや40歳くらいまでは あったような気がするの
危険だよね~ しかし それは 仕事などに まい進 集中することで 消せるとは思ってる
まあ 日本人も過去には 人を大勢殺して生き残ってきた歴史がある訳ですから
これを読んでいる 貴方の 先祖も たくさんの人を殺して 戦いに勝って 生き残っているわけなの
まあ ワシは 鉾立ての 血の流れなので 戦う系や 戦わずして 死んだり しても 生きてる意味が薄い
鉾を立て 準備をすると言うことは 相手を威圧して 征服しまくるぞ という 意思表示なのや
そうすれば 戦わずして 降参して 戦争には ならない事もある
武器を持たずして 相手を威圧は出来ない
また 戦いにいどむ には 多くの 身内を持たねばならないの その身内に 信用されねば いざ って ワシが先陣切り 突っ込んで進んでも
後ろから 誰もついて来ていないでは
すぐに ヤラレル
なので 日ごろから仲間には信頼されねばあかん
尊敬される 棟梁でなければ あかんよね
バタ屋とうない流の 古代史など 歴史研究やな
ワシは 今を強く行きぬく為に 歴史を振り返っているんじゃ そして それは 相場の先読みにも
繋がると信じてるの
バタ屋 東内誠(藤内 とうない)の会社のホームページは↓
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『中山神が美作国楢原邑神宿に初めて示現したとき,
『中山神が美作国楢原邑神宿に初めて示現したとき,
触媒的役割りを 果たしたのが
「とうない東内/藤内」氏であった。
藤内氏は菰を刈って
チマキを作り神を饗応したといい,
その功から以後
明治初年まで美作東半国の
初穂料を徴収し,
中山神社に納める 職能を担うこととなる。