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徐福伝説但馬から美作?九州から吉備国へ 平福遺跡 日本人のルーツを求め東内誠

2014-01-20 06:56:29 | 中国向け非鉄金属輸出価格相場トーナイ

徐福(じょふく)は2200年前頃に 日本各地にも 記録が残されていて 秦の始皇帝の時代に 3000人もの技術者 若い男女を連れて 五穀や農耕具 金を持ち 日本にきて 

そして中国には結果 帰らなかった 日本に住みつき 根付き 各地に子孫を残したようです

また その徐福の子孫は中国にも現在も子孫が残っていて その地区の人々は 日本には 友好的であると 映像検索 でも出てきます

2200年も前の古代に3000人の人々を連れてきたということは 30mほどの長さの船としても なかりの多くの船団を組んできたのでしょう 

甘粛省辺りで 秦の国が建設され建国に至ったのですかね ここら辺りには シルクロードを流れてきた ユダヤの浮浪の民が 住みついていたかも 知れない と言う様な事も いろんな所に書いてある この浮浪の民は 東の果ての

神が目指せと指示をした 東の果ての島国 わが国

日本を目指していた民族とも言われているの ヘブライ(イスラエル)の血が混ざっているのではないか といわれていますね 日本人にも

その徐福が来たとする 当時の 日本の人口は 10万人なのか30万人なのかは 空想の世界です

馬や牛 羊は 何時の時代に 日本に渡ってきたのでしょうか 魏志倭人伝では その時代には 倭国(日本の全てを調査した上でか どうかは知れませんが)

馬は居なかったと 書かれているようです

倭国という表現は 中国から 日本を多少 見下した表現であるように想像しては おります 東内 吉備国美作の国の出自の歴史を勉強中の者の日記です

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011035930;_ylt=A2RAEEVJFNxSOW0AaB9sAPR7?query =徐福

 

岡山県 美作市楢原 神宿 とか 美作市平福 を歴史研究の方々の検索に このトーナイブログが 検索に かかって欲しい と 意識もして 書いています

 

岡山県には 徐福伝説は少ないですが

佐賀県とか 和歌山県 そして京都の若狭湾にも 徐福伝説がある

 

ワシが徐福の立場であったとしたら

まず 船を止めて 湾があるような場所に 入り 船を繋ぐことを考える それには 若狭湾も適している

天橋立の周辺も ええな と 感じると思うだろう

そして 小高い丘の上に 先発した勇敢な男を登らせて 周辺に武器を持ったような 村落があるのか 無いのか

まず それを調べる 当然 水が飲めるかどうかも すぐに調査させるでしょう

 

福と知名に名称が使われている 地区には徐福となんらかの 関係が その何%かは あるのかも 知れないですね

 

そうなの 美作の 平福(ひらふく) も 私はそう感じてる

その平福は ワシの家から直ぐ東の村なの

ここからは 石棺も大変に綺麗なもの等が出土して

その埋められた時代も 1800年前から2200年前だと 認識しているの

 

ここには 羊だか 馬だかが とても綺麗に描かれています これは 今は国の博物館に保存してあるのです

博物館の調査の人は 馬としている また その後ろの三つの山も 遠くの山の風景としているが

このみっつ山は 明らかに 美作市の中山 妙見 の前の 三ツ星城の跡地がある みつぼしやま だと 地元の人が見れば すぐに 知れたことだと思います

そして 女性が 楽しそうに 馬か 羊かと 共に 描かれています とても平和そうに 描かれています

 

その描かれている 馬なのか 羊なのかの絵が 中国の徐福の村の壁画 とも たいへんに 描かれようが似ている

徐福の村の 現在でもある岩に描かれた壁画のようなものは 以後の時代に再生されたものらしいが その絵 などは どこかに記録が残っていたのだと想定しています ワタシ。

 

2014年1月19日の MHKの20時の 何時も連続ドラマでも 赤松氏が 悪者として 出てきますが

話が 飛んで申し訳ないですが すぐに戻りますので

美作市の平福から 東へ兵庫県に入った辺りにも

宮本武蔵が 佐用郡(現在の佐用市)のほうに 下りてくる道にもなる

美作平福から 15kmほどか20km あるかな その場所にも 同じ 平福 という いかにも 古くからの場所を感じさせれる地名のところが 川沿いにあります ここは 私 数年に一回ほどは 車で通過するのですが ここを通る耽美に なにか 感じる所がある 変な気分に陥るの・・・

ここは 今から400から800年ほども 前の時代からは

昨夜もNHKで出てきた 赤松氏の 城が あったと思う

城なのか 関連する屋敷なのかは 解からない

赤松氏が 『平福』に 関連した 人物であると言う事は間違いないと思う

この川から 船を出せば 瀬戸内の どうじゃろ 赤穂のほうへ 物資を運搬することも 可能だと思います

 

まあ 佐用市の平福を通ると ワシには 何かを強く 感じる気配があると いうことなの

 

暫く前にも 比叡山の山頂付近で ワシは運転中に 縛られてしまって 身動きも出来なくなって 倒れる寸前で 高槻市の自宅に 逃げて帰ったって ここのブログでも書いたと思うのですが 比叡山のようなものではなく この平福を 通ると 過去のご縁なのか なにか 感じますのです おい東内誠 車を止めて 川岸でも散歩してから 大阪へ 帰れや とか そんな感じです

 

ワシ 山中を数百kmも 日に乗用車で走る 癖があるのです 少し変わっている人間です

何故かしら 備前市から和気インター 付近から 蒜山高原の中の 山々の道から 鳥取の山中を走り 但馬 丹後 天橋立付近 そして琵琶湖周辺などの 山々を 自然と そこへ勝手に方向が いくの ハンドル握ると 何故なのか そのコースの一部を走行してるの

200km×80km ほどの 四角の範囲になるのかな

 

 

マタギの 山の人なども その範囲 程度は移動したのかも 知れないね

マタギといえば 思い出す

22歳の時に 4人の人達と 共同で クズ屋のグループを作った 

そのときに 仲間の名称をつけたのが ワシで 

それはマタキ って 名を ワシが考えたんじゃ

大阪に出てきて 初めて知り合った連中なの

玉置さんって人と 山尾さんって人 それと足立さん って人 最初の2人は和歌山県出身の人たちで 足立さんは 多分 但馬地方の出で 彼は 名古屋の辺りで悪さをしていた人だと思う

 

彼らは わしより20歳前後 年上の人達でした

行商人のグループで その後 屑の行商人をスポニチの人材募集で 全国から 集めて 自分たち自らも 屑を集めながら 同時に

ピンハネ屋 車両のリース屋もやっていました

4日に一回は 当番制で 事務も その頃 ワシも仕切り書 書いて 行商の方たちに 屑集めた分のお金を支払いし そのうちから 日々 家賃と 車代を差し引いて 支払って 独立採算で 皆さんに 屑 集めて貰ってもいましたんじゃ

一時は 50人くらいも 屑集めの人達を 全国から集めた なので そのグループ 新車のトラックをどんどん購入していったのでね そう 借入金が どんどん 膨れていってしまった

そのグループに何故か マタキと名づけたの

 

マタギ ってのは 山を徘徊して 獲物をとり 集めるのが 仕事や

日々 山を さまよい歩くのも仕事じゃ

そして 山には 霊気を強く 感じる場所があるの

獲物を狙っている者には 獲物が 何処に 隠れているのか 推測する 能力もあると思うの

ワシが 21歳10ヶ月から 狙った獲物は 屑なので その屑が 何処で発生する 溜っているかを 臭覚で嗅ぎ分けるのんじゃ

 

とにかく ワシは 22歳の頃は 臭覚が強かったと思う

短時間に 誰よりも 多くの屑を集めるの 誰にも負けたくないの

 

ただ 多くを集めても 相場が 大暴落して 集めても集めても 儲けの とっても 少ない 時代も 何度も経験してる 

 

なので 年率で 10%づつ 集める内容を 品目を 年々 商品数を 増やしていったと思う

 

平福の 話題から クズ屋のスタートの頃の思い出に 話が 向ってしまった ま エエか

 

ワシは 佐用郡の 平福は 22歳の頃から 何度も 通る道なの それは 姫路から 佐用を抜けて 岡山の東端っこの大原 粟倉 をすりぬけて 鳥取市に向けて 屑を回収に行く道なの 

 

姫路から 龍野 山崎を 抜けて 山越えする 屑回収コースもワシにはあったのですが 佐用を抜けると 平福を抜けるとなるの 何故か その道に引き付けられる傾向が 22~23歳から ワシには あるの

 

21歳10ヶ月で 里とのご縁を十年間

切ったことも 影響しているかも 知れないが 

縁を切らねば 多分 今頃は ワシ 違った人生で 

もしかして 自由を奪われて 外と中を行き来して いたかも 知れないし

そんな 予感がするわ

 

まあ その後 大阪に出てからの仲間達とも なかなか 合わなくなり 28歳の頃かに 離れてしまって 今に至っています

 

その頃から 大阪府の屑関連の 事業協同組合にも参加し始めたんかな

政治家の関連は 25歳あたりから 各所に ご縁を こちらから 近づき始めたころかな

商人なので 各所に ご縁もなければ ならんと思った

30歳前後の頃は 選挙の車の運転手もボランテアで参加し始めたの だった と思う

 

とにかく 何処へでも トラックで うろつきに廻るのが仕事じゃし

 

しかしさ ワシのようなレベルの低い者でもさ

こうして 知らない土地に たどり着けば まあ うろうろして 良い場所も探して ワシの場合は 旅をかけて36年ほどでも 拠点は どうやろ15箇所くらい もってるわけで 36年で 15箇所に 何かの関連がある訳で

 

その昔の 渡来人 気化人たつも 移動したと思うよ

もしも 徐福の3000人が 2200年前に きていたとしたら 

そりゃあ 3000人が うろつけば まあ 日本全国に 移動をしたり 拠点を作っていったのだと思う

 

ワシの場合で恐縮ですが こんなテイ脳レベルでも 里からは 一円も ご支援は頂戴していないし

それで 15箇所にご縁が 今 出来ているとしたら

徐福さんなどは 多分 秦の始皇帝をも 口達者に口説いて 渡航に許可を貰ったのだから 彼は 多分 天才ほどの知能があったと思って当然だと考えます

 

どや 21歳から 旅 している ワシがそう考えると

親の規定路線どおりに 生きてきている人よりも幾分

説得力は あると思うのじゃが どうじゃ?

 

 

 

バタ屋 東内誠(藤内 とうない)の会社のホームページは↓

 http://www.tohnai.com/top_main.html

 屑関連の仕事がありましたらば 

お気軽にお申し付けください

関西一円 量があれば お伺いします

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電話は072-678-1112 (代表)

 

 

ワシの場合は 21歳からとは 言ってるが 実は13歳の頃から ほとんど家を離れてしまっているので

他人の家に 寝かしてもらったりさ

寝るところがなければ 田んぼの藁の中で寝たり

祠の中で 眠ったり だしさ

40数歳まで 父親と口も聞かず だったんや

最近は 親が老いたので ワシも とても 

大事には ているけれども・・・

腹が減ってさ 玉葱を むしって食って

そうや 口から 火が出るぞ ほんまなの

腐ったご飯の食べ方も 知ってるの

何度も 洗うのんじゃ

お茶で洗う 何度も洗う

 

ワシは 山に入って暮らしても鳥は獲れる自信はあるの

山で 家を作り雨風を凌ぐことも 多分 今でも出切る

鉈が一本あれば エエぞ

そやねん 鉈は 大阪に出てきて 暫くの間は

車にも 何時も積んでいたの ある時は 腰の後ろにも付けていたの

 

何時 何処から 襲われるかも 知れず 常に ジャングルの中に住んでいると思っているのでな

 

今か 今は 相場が 勝負の相手や

 

とにかく 今日のアピールは歴史研究の方が これを読めば 吉備国 美作 平福 棺 出土 5鉾立て 神宿 ちゅうさん 中山神社 鬼 桃太郎 秦 馬 羊

徐福の 福の 地名に残るもの 兵庫県北西部の佐用郡

平福 この辺りが検索にかかって欲しいところ

 

 

 

 

【諏訪大社 藤内 とうない遺跡で検索したら】

【他人様の物を 少し コピー『』↓】

 

藤は産鉄のキーワードか

中山神が美作国楢原邑神宿に初めて示現したとき,

触媒的役割りを 果たしたのが

「とうない東内/藤内」氏であった。

藤内氏は菰を刈って

チマキを作り神を饗応したといい,

その功から以後 

明治初年まで美作東半国の

初穂料を徴収し,

中山神社に納める 職能を担うこととなる。

 

中山神の古代金属生産とのつながりや,楢原地域の産銅・産鉄の可能性の高いことを指摘したところでもある。
また,フジにかかわる伝承として特異な感じのものが, 出雲と播磨の両国に残っている。 いずれも鉄産にからむもののようで, まずは出雲の話からかいつまんで述べておきたい。

出雲のとうない(藤内)

柳原大納言なにがしが勅使として出雲大社へ下向のみぎり, その警護役のものに

藤内某というものがあった。

能義郡布部というところに至り, 宿泊した長者の家で近辺(比田)に巣くう魔物の話耳にし, 大納言の命により 藤内が退治することになる。 山王権現の使いである猿の案内でめでたく化物を打ち取るが, 頭は人のようで 白髪三尺あまり, 四足は狼・尾は牛に似て,前身黄色の毛に覆われていたという。
 藤内はこの地に留まり, 比田の山麓に宮を建てて鎮守とした。 その後藤内の子孫は四十数代続いて今日に至り, いま田辺の姓を名乗っているという。  

(原話:田辺善明/再話:小汀松之進)

能義郡は近代までたたら-砂鉄による産鉄地帯で,

播磨国宍粟郡岩鍋に示現した金屋子神が,

白鷺に乗って 西比田の黒田に飛来し,

たたらの技を伝えたとする伝承を述べた。

 

この神はこの地に鎮まり「金屋子神社」となっている。』

 

 


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