女子学習院を卒業後すぐに結婚の話が出て来た。
「男女七歳にして席をおなじゅうせず」の言葉どおり同じ年代の男性と言えば、精々従兄弟たちであった。
その従兄弟よりプロポーズされた事もあったそうだが、母は「子供の頃一緒に木登り、凧揚げした人と結婚なんてちゃんちゃら可笑しくて」と言っていた。
昭和16年7月、旧福井藩当主であった松平春嶽の孫の松平康愛との結婚が決まる。
その年の9月14日旧帝国ホテルの孔雀の間にて盛大な披露宴が行われた。
式と披露宴には高松宮両殿下も御出席頂いた。
何人の方をお招きしたのかは覚えていないが、同級生はすべてお呼びしたと言っていた。
数日後、福井のご主人の地元へご挨拶に伺う。
福井の駅を降りると駅前には子供たちが大勢おり旗を振り大歓迎で何かとても恥ずかしかったと言っていた。
三日間滞在し連日大宴会だったそうだ。
新居は原宿に義父が二階家を買ってくれた。
幸せな新婚生活とともにひたひたと戦争の足音が近づいて来た。
義父は宮内省にて内大臣秘書官長を努めており、昭和天皇の側近の一人であった。
そのせいもあり戦争が起きそうな事は常に感じていた。
とくに東条英機が首相になったら必ず米国と戦うことになると、毎晩のように千駄ヶ谷の自宅にて会合を開いていた。
母はそういった義父をよく見て居たので、近いうちに良くない事が起きる事は感じていた。
昭和16年12月8日、ついに地獄の大戦に突入していった。
母の、また日本中の人々の、平和な夢のような生活が消えて行く事になったのである。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
「男女七歳にして席をおなじゅうせず」の言葉どおり同じ年代の男性と言えば、精々従兄弟たちであった。
その従兄弟よりプロポーズされた事もあったそうだが、母は「子供の頃一緒に木登り、凧揚げした人と結婚なんてちゃんちゃら可笑しくて」と言っていた。
昭和16年7月、旧福井藩当主であった松平春嶽の孫の松平康愛との結婚が決まる。
その年の9月14日旧帝国ホテルの孔雀の間にて盛大な披露宴が行われた。
式と披露宴には高松宮両殿下も御出席頂いた。
何人の方をお招きしたのかは覚えていないが、同級生はすべてお呼びしたと言っていた。
数日後、福井のご主人の地元へご挨拶に伺う。
福井の駅を降りると駅前には子供たちが大勢おり旗を振り大歓迎で何かとても恥ずかしかったと言っていた。
三日間滞在し連日大宴会だったそうだ。
新居は原宿に義父が二階家を買ってくれた。
幸せな新婚生活とともにひたひたと戦争の足音が近づいて来た。
義父は宮内省にて内大臣秘書官長を努めており、昭和天皇の側近の一人であった。
そのせいもあり戦争が起きそうな事は常に感じていた。
とくに東条英機が首相になったら必ず米国と戦うことになると、毎晩のように千駄ヶ谷の自宅にて会合を開いていた。
母はそういった義父をよく見て居たので、近いうちに良くない事が起きる事は感じていた。
昭和16年12月8日、ついに地獄の大戦に突入していった。
母の、また日本中の人々の、平和な夢のような生活が消えて行く事になったのである。
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