大学入学後、以前からやっていたアイスホッケーをやりたかったのだが、大学の運動部の中には無かったので取りあえずと安易な気持ちでラグビー部に入部した。
しかし東海大学のラグビー部はかなり伝統もあり、高校の頃よりやっていたメンバーが殆どで、とてもレギュラーなどになれるわけもなく連日革のラグビーボールに唾で磨き続けた。
結局部活は長続き出来ず2年で退部した。
帝国ホテルに入社してからのことはあまりにも色々な事があったので少しずつ書いて行きたいと思っている。
まず、帝国ホテルとの徳川、井手家の何か不思議な縁みたいなものから書くことにする。
母の最初の結婚式は旧帝国(ライト館)の孔雀の間であった。
また、前に戻るが帝国ホテル創業に当たり慶喜公の家臣であった、渋沢栄一氏が関わっていた事。
後に井手家に母が嫁ぎ私が生まれ、小学校の頃祖父の井手徳一に連れられてやはり旧帝国でアイスクリームをご馳走になった事。
その頃帝国ホテルに足を運ぶ方は財界人か旧華族の方がほとんどであった。
そして、昭和47年私が入社となる。
今思うと何か縁があったとしか思えないのである。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
しかし東海大学のラグビー部はかなり伝統もあり、高校の頃よりやっていたメンバーが殆どで、とてもレギュラーなどになれるわけもなく連日革のラグビーボールに唾で磨き続けた。
結局部活は長続き出来ず2年で退部した。
帝国ホテルに入社してからのことはあまりにも色々な事があったので少しずつ書いて行きたいと思っている。
まず、帝国ホテルとの徳川、井手家の何か不思議な縁みたいなものから書くことにする。
母の最初の結婚式は旧帝国(ライト館)の孔雀の間であった。
また、前に戻るが帝国ホテル創業に当たり慶喜公の家臣であった、渋沢栄一氏が関わっていた事。
後に井手家に母が嫁ぎ私が生まれ、小学校の頃祖父の井手徳一に連れられてやはり旧帝国でアイスクリームをご馳走になった事。
その頃帝国ホテルに足を運ぶ方は財界人か旧華族の方がほとんどであった。
そして、昭和47年私が入社となる。
今思うと何か縁があったとしか思えないのである。
徳川おてんば姫(東京キララ社)