大学2年の時に父から”一度俺が戦ってきた所をみてこないか?”と言ってくれた。
勿論サイパン島の事である。
ラグビー部の親友と二人で生かせてもらうことになった。
その当時、二人共海外旅行はもちろんのこと、飛行機に乗るのも初めてであり夢のようなことだった。
当時はサイパンへの直行便はまだなくグアム経由であった。数年前に父と母でサイパンに戦友の慰霊に行っていた。
パスポートを取り準備万端当日を迎えた。
飛行機に搭乗した時と離陸した時の高揚感は今でも鮮明に覚えている。
何しろ今から50年も前の事で、グアム島もサイパン島も今のように観光地として整備されていなかった。
サイパン島では父の関係の薬屋の駐在員が迎えてくれ、当時では一流のホテルだった。
海辺には当時の日本軍の戦車や砲台の後もまだまだ生々しさを残していた。
日本人の観光客も殆ど見当たらなかった。
父がここで死ぬ思いをしたとは思えないほど、平和な常夏の島だった。
戦時中の話は何度も聞かされていたが、時もたち、私は感慨に耽る事は中々出来なかった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
勿論サイパン島の事である。
ラグビー部の親友と二人で生かせてもらうことになった。
その当時、二人共海外旅行はもちろんのこと、飛行機に乗るのも初めてであり夢のようなことだった。
当時はサイパンへの直行便はまだなくグアム経由であった。数年前に父と母でサイパンに戦友の慰霊に行っていた。
パスポートを取り準備万端当日を迎えた。
飛行機に搭乗した時と離陸した時の高揚感は今でも鮮明に覚えている。
何しろ今から50年も前の事で、グアム島もサイパン島も今のように観光地として整備されていなかった。
サイパン島では父の関係の薬屋の駐在員が迎えてくれ、当時では一流のホテルだった。
海辺には当時の日本軍の戦車や砲台の後もまだまだ生々しさを残していた。
日本人の観光客も殆ど見当たらなかった。
父がここで死ぬ思いをしたとは思えないほど、平和な常夏の島だった。
戦時中の話は何度も聞かされていたが、時もたち、私は感慨に耽る事は中々出来なかった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)