徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

私・井手純〜大学から帝国ホテル時代①〜

2019-05-24 05:00:00 | 日記
大学入学後、以前からやっていたアイスホッケーをやりたかったのだが、大学の運動部の中には無かったので取りあえずと安易な気持ちでラグビー部に入部した。
しかし東海大学のラグビー部はかなり伝統もあり、高校の頃よりやっていたメンバーが殆どで、とてもレギュラーなどになれるわけもなく連日革のラグビーボールに唾で磨き続けた。
結局部活は長続き出来ず2年で退部した。

帝国ホテルに入社してからのことはあまりにも色々な事があったので少しずつ書いて行きたいと思っている。

まず、帝国ホテルとの徳川、井手家の何か不思議な縁みたいなものから書くことにする。

母の最初の結婚式は旧帝国(ライト館)の孔雀の間であった。

また、前に戻るが帝国ホテル創業に当たり慶喜公の家臣であった、渋沢栄一氏が関わっていた事。

後に井手家に母が嫁ぎ私が生まれ、小学校の頃祖父の井手徳一に連れられてやはり旧帝国でアイスクリームをご馳走になった事。

その頃帝国ホテルに足を運ぶ方は財界人か旧華族の方がほとんどであった。

そして、昭和47年私が入社となる。

今思うと何か縁があったとしか思えないのである。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純〜叔母・高松宮妃殿下との思い出②〜

2019-05-23 05:00:00 | 日記
妃殿下が車の免許を取られたとき御殿の車寄せで、週末早朝よく練習をされていたのを知っていた私と弟は時間を見図り、恐れ多くも待ち伏せをしたのである。

我々に気が付いた妃殿下は悪ガキ兄弟を車に乗せ、御殿で朝ご飯をご馳走して下さった。
母はちゃんと食事を作ってくれていたが、当時御殿で頂く朝食はとても一般的な家庭で食べられる物とは全く違っていた。
何も知らない悪ガキ二人は朝からキャビアやら見たこともないフルーツをガツガツと食べた。

妃殿下は恐らく楽しんでご覧になっておられたんだと思う。
今思うと冷や汗ものである。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純〜叔母・高松宮妃殿下との思い出①〜

2019-05-22 05:00:00 | 日記
叔母の喜久子妃殿下にはお子様がおられなかった。
怒られるられるかもしれないが、私と弟が子供の頃、叔母、甥ではなくて、孫のように思っていただいていたのではないかと、今思うと感じてならない。
私の母とは11歳も離れていたからである。

母自身も幼い頃母を亡くしていたので、姉というよりも母親の感覚だったようだ。
また、父親の顔を(母の父、慶久は母が生まれる半年前に亡くなった)知らない母にとっては高松宮殿下が同じく父親のようであった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純〜こども時代②〜

2019-05-21 05:00:00 | 日記
初等科1年の頃、父が吸っていた両切りのピース(煙草)を一箱持ち出し、弟と従兄弟の徳川慶朝と3人で隠れて外で吸った。
弟と慶朝はむせて吸えずすぐやめた。
私はプカプカ吸込み調子に乗っていた。

そのうち、当然のこと気持ち悪くなり、家に帰って横になっていた。
母は夕食の時いつも飛んでくるのにおかしいと思い、顔を近づけると煙草の匂いで驚いて父に言った。

父は特に驚かず診察室に連れて行き、おしりに太い注射器で多分ブドウ糖だと思うが打たれた。
怖い顔をしていたが、今思うと半分わらっていたようだ。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純〜こども時代①〜

2019-05-20 05:00:00 | 日記
昭和31年に学習院初等科に入学。
毎日都電(田町九丁目)で四谷見付行き、3番線に乗り終点の一つ手前、若葉町まで登校する。

三年後、弟と二人で通うようになった。
当時は都電の運転手、車掌さんと仲良くなり、よく話しながら結構楽しい時間だった。
その頃丁度東京タワーの建設が始まっており、日に日に高くなっていくのを本当に驚きながら見ていた。
映画「三丁目の夕日」と、まさしく同じ時代である。

学習院初等科の制服は、多分今も同じだと思うが、私は一年中制服の下はランニングシャツで靴は母が選んでくれた編み上げブーツだった。
朝礼の時は毎日上着をぬいでラジオ体操をした。
真冬でもそうしていた。

6年間無遅刻無欠席で表彰された。
そのくらいしか自慢出来ることはない。

成績は5段階で殆ど3と2であった。
しかし体育だけは4か5であった。
両親のお陰で体だけは本当に丈夫だった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)