ここで、徳川家との話も軽く触れておこう。
母の兄、徳川慶光家とは、高輪に越してから密接にお付き合いすることになった。
と、言うのも、私の住んでいた一軒家のとなりに元々住んでいたからだ。
会津松平家より嫁、和子を迎え3人のこどもがいた。
二人の娘と、長男の私と同い年の慶朝である。
小学生の頃は休みの日には、ほとんど徳川家に弟と遊びに行き、3人で遊んだ。
慶朝の母、和子様のことは”おたあちゃま”と呼んでいた。
とても優しい方で静かな方だった。
庭で”缶蹴り”をしたり縁の下に穴を掘って潜ったり、庭の木の上に小屋を作ったりしてよく遊んだ。
慶朝の事は”ともちゃん”と呼んでいた。
夏場は、おやつにいつも近くの団小屋から、かき氷の出前を取ってくれた。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
母の兄、徳川慶光家とは、高輪に越してから密接にお付き合いすることになった。
と、言うのも、私の住んでいた一軒家のとなりに元々住んでいたからだ。
会津松平家より嫁、和子を迎え3人のこどもがいた。
二人の娘と、長男の私と同い年の慶朝である。
小学生の頃は休みの日には、ほとんど徳川家に弟と遊びに行き、3人で遊んだ。
慶朝の母、和子様のことは”おたあちゃま”と呼んでいた。
とても優しい方で静かな方だった。
庭で”缶蹴り”をしたり縁の下に穴を掘って潜ったり、庭の木の上に小屋を作ったりしてよく遊んだ。
慶朝の事は”ともちゃん”と呼んでいた。
夏場は、おやつにいつも近くの団小屋から、かき氷の出前を取ってくれた。
徳川おてんば姫(東京キララ社)