徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

私・井手純 〜徳川家とのおつきあい①~

2019-06-24 05:00:00 | 日記
ここで、徳川家との話も軽く触れておこう。

母の兄、徳川慶光家とは、高輪に越してから密接にお付き合いすることになった。
と、言うのも、私の住んでいた一軒家のとなりに元々住んでいたからだ。
会津松平家より嫁、和子を迎え3人のこどもがいた。
二人の娘と、長男の私と同い年の慶朝である。

小学生の頃は休みの日には、ほとんど徳川家に弟と遊びに行き、3人で遊んだ。
慶朝の母、和子様のことは”おたあちゃま”と呼んでいた。
とても優しい方で静かな方だった。
庭で”缶蹴り”をしたり縁の下に穴を掘って潜ったり、庭の木の上に小屋を作ったりしてよく遊んだ。
慶朝の事は”ともちゃん”と呼んでいた。
夏場は、おやつにいつも近くの団小屋から、かき氷の出前を取ってくれた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純 〜宮家とのおつきあい③~

2019-06-23 05:00:00 | 日記
~宮家とのおつきあい①~で記事に書いた、品川の料亭にて両殿下をご招待した際の写真。

向かって前列の左から二人目が三笠宮寛仁殿下である。
前列中央に写っているのが、母・井手久美子である。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純〜宮家とのおつきあい②~

2019-06-22 05:00:00 | 日記
ある日、休みの早朝に芝にあったゴルフ練習場に行くと練習場の真ん中に4~5人の人がいた。
(朝から熱心な人たちだな)と思いながら少し離れたところで私も練習を始めた。
少し気になったので、飲み物を買いに行く時に近くで見ると、なんと寛仁殿下であった。
周りにいる人はSP2人と練習場の支配人であった。
後ろで見ていると殿下も気にされ、私を見られ「なんだ、お前か。朝から熱心だな!」と言われたので「そのお言葉そのままお返しいたします。」と言うと殿下は少し笑われていた。

寛仁殿下は、叔父にあたる高松宮宣仁殿下を大変頼っておられ、よく高輪の御殿に来られていた。
また、スキーの大会などは御一緒に参加されていた。
宣仁殿下が薨去されたおりは、「お舟入り」のときに宣仁殿下が使われていた愛用のスキーの板をお棺の中にお入れになっておられるのを私は見させて頂いた。

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私・井手純〜宮家とのおつきあい① ~

2019-06-21 05:00:00 | 日記
大人になってからも宮家とのつきあいは当然続いている。

ある時、母が高松宮宣仁殿下に、中華のデザートであるもち米で中にあんこを入れて外側にドライフルーツを飾った物をお届けした。
殿下は大変お気に入りになられ、母に「昭和天皇も甘いものがお好きなので是非作って欲しい」と言って頂き、母も畏れ多い事とうれしさでとても喜んでいた。
早速作りお届けした。

三笠宮寛仁殿下とも母はよく話をされており、一度品川にある料亭に寛仁殿下妃殿下をお招きしたことがあった。
その料亭は帝国ホテルにも入っていたので、段取りは全て私にまかされた。
あくまでもプライベートであったので、ホテルには何も報告はしなかった。
メニューはすべてお任せであった。

当日は、料亭の女将、料理長もご挨拶にきた。
懐石料理なのだが料理長の説明があり、一品ごとに3~4種類あり、その都度一人ずつメニューの中から選ぶものであった。
お決まりのコースではなく個々に好きなものを選べるもので、その都度料理長から産地等々の説明があり、素晴らしいものだった。
懐石オートクチュールと言っていた。
両殿下も大変お喜び頂き、母も満足していた。(写真)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編⑤〜

2019-06-20 05:00:00 | 日記
「大荒れの婚礼」(続き)

新郎の父の肩書は精肉会社の社長であったが、もう一つの肩書があり、反社会的勢力の関係者でもあったようだ。
後に色々と解ったのだが、私は胸ぐらをつかまれた時に見た刺青ではっきりした。
朝からの接客で、何となく感じてはいたのだが・・・そして、新郎と母親の会話がよみがえった。
新郎の父はとにかく酒癖が悪く、何か事あるごとに暴れることが多かったそうで、その都度、警察に呼ばれ問題のある人物であった。
新郎の危惧していたことが起こってしまったのだ。
新郎は壁を叩いて涙を流していた。

私は、とにかく破かれたシャツを着替えに地下のロッカーへ行った。
その後すぐに戻ると現場にはホテルのマネージャー、予約を断った副支配人、それに宴会部の課長の3人が新郎の父と向かい合い、新郎の父は、椅子に座り、なにか大声で怒鳴っていた。
3人は床に正座していた。
そのうち、警察のいわゆる丸暴(暴力団対策課)の刑事が来た。
刑事は私服で、一人で来ていた。
顔見知りの様で、色々と話しをしていたが暫くして、刑事と新郎の父、そして若い衆3人はホテルを後にした。

その後、私は宴会課長の調書をとられた。
結果としてはレストラン部の対応に問題があったことになった。
この頃の宴会部とレストラン部の間には幾つかの問題があった。
宴会部で受ける仕事は人数もさることながら金額が多い。
今回の披露宴も軽く1000万円は超えるのである。
わずか3時間ほどでそうなるのであるから、宴会部としては、お客様のかなりの我儘も何とかしてかなえなければならないのである。
そのため、他の部署にかなり無理を強いることが多くあった。
それを上手にお互い忙しい中、つなげるのが社員同士の人間関係であった。

私としては、披露宴が大成功だったのでこの様な結末が残念でならず、なんにしても新郎が気の毒でならなかった。
犬丸一郎社長が昔より社員によく言っていた言葉が、「サービスは常に、100-1=0である。気を引き締めて最後の最後まで気を抜かないように!」であった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)