下記リンクの続編です。
関中一番乗りを果たした劉邦は、関中の主として、早速防御を固めました。
しかし、後続の項羽は、これを見て激しく怒りました。
自らは決死の覚悟で秦軍を粉砕し、苦労しながら此処まで来たのに、
劉邦は戦らしい戦もせずに、関中の主を気取っている。と、
この時、項羽は、秦軍主力を倒してから、日和見の叛乱勢力が挙って配下に加わってきて、
秦の投降兵の一部も加わり、四十万の大軍に成って居ました。
かたや劉邦は、十万程の軍勢で、正面から当たれば項羽の圧勝は目に見えていました。
なので、項羽はここで一気に劉邦をも打ち破って覇業を完成させようとします。
しかしこの動きを察知した劉邦陣営は、すぐさま少数の共の者だけで、
項羽陣営まで謝罪に伺います。
項羽の方では、軍師が劉邦を生かすと、将来の禍根に成るので、必ず殺すべし!
と主張するが、小心者の様に平身低頭の劉邦の様子を見て、項羽は油断し、
命を助けられます。
この後、論功行賞で、劉邦は、関中全体は手に入れられず、
関中の一部では有るが、非常に辺境地帯に有る、
漢中(関中と発音が同じ)を与えられました。
これにより、以後劉邦は、漢王を名乗る事に成るのです。
その後、項羽は楚王を皇帝に即位させて、義帝を名乗らせ、
自らは西楚の覇王を名乗り、天下に号令しました。
劉邦は、漢中への道(桟道)を壊し、もうこの地から外へは出ない。
と言う事を周囲に主張して、項羽やその配下を安心させました。
そして、項羽が油断した隙に、関中を分割統治していた三王を攻めて、
改めて関中全土を取り返しました。
そして関中に境を接する、韓や魏も下ってきて、勢力を盛り返しました。
その頃、項羽は義帝の存在が疎ましく成り、南方の僻地へ遷都させる途中で、
殺害させて完全に独立をしました。
これを聞いた劉邦は、天下の主君を殺した項羽は逆賊で有る!
と各地の諸侯に檄文を送り、義帝の弔い合戦を始めました。
これには劉邦の方に義が有り、義帝は反乱軍の殆どの勢力の主君と成って居たので、
ぞくぞくと劉邦の元に各地の勢力が集まって来ました。
その数は六十万近い大軍に成り、一路項羽の本拠地を目指します。
この時項羽は、東の斎が軍門に下らない為に、討伐に出掛けていて、
本拠地を留守にしていました。
そこで劉邦が攻め込んだので、一気に落城させてしまいました。
しかしこの情報を聞きつけた項羽が、直ぐに取って返して、
勝利に浮つく劉邦の連合軍を徹底的に粉砕してしまいました。
連合軍だった劉邦配下は、直ぐに劉邦を見限り項羽に付く者等が続出して、
結局、劉邦は命からがら逃亡する。と言う体たらくでした。
しかし、少数の兵を引き連れて脱出した、大将軍韓信が、
別働隊を率いて、各地を転戦して各地を降して勢力を築き、項羽を撹乱したり、
蕭何が後方支援として、本拠地から絶えず兵や兵糧を劉邦へ送り続け、
組織の崩壊を食い止めて、軍師の張良が作戦を立案して、
各地の諸侯と連動して、項羽を疲弊させて行きました。
この様にして、劉邦は戦争には連戦連敗しましたが、
組織を何度でも立て直し、何度でも項羽に挑戦して項羽と対峙し続けました。
その内に、連戦連勝を続けていた項羽も、その強権的手法に嫌気が差す
勢力が段々と出て来て、寛大で気前の良い劉邦に、次々と鞍替えする者が多く出て来ました。
すると持久戦に縺れ込んで、後方を撹乱されて補給が出来ない項羽は、
遂に劉邦との天下を二分する和睦を締結する事に同意します。
しかし、この和議を部下達の進言で反故にして、
疲弊して退却中でいる、項羽に襲い掛かりました。
弱っている所へ奇襲された項羽は、流石に堪えられずに、
遂に垓下の地に籠もり、此処で大勢が固まったと、日和見の全国の諸侯も、
一気に劉邦陣営に参じて来て、この状況に項羽も決心して、
決死の突撃をして長江を渡る手前で討たれて果てました。
こうして、項羽との抗争に決着を着けた劉邦は、自ら皇帝に即位して、
正式に漢王朝を開闢しました。
その後は、北方騎馬民族の匈奴を討伐して敗れ、
漢を弟国として傅き、また勢力を持って来た配下の諸侯を討伐したり、
功臣を粛清する等、晩年は暗い影を落しますが、
漢王朝を創設してその体制を固めるのに尽力して崩御しました。
今度は、彼の筆者的魅力と、ランキングの解説をしてみたいと思います。
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劉邦の生き様(前編)★