◇◆◇帰って来た嗜好の隠れ家blog◇◆◇

嗜好な事や色々の思った事を再び書き連ねます。

そのまんまショック!

2009年06月25日 02時16分23秒 | 世界@名無史楽家
この記事のネタ。
意外にも大激震っぽく成って来てしまいましたね?

でも、マスゴミや自民党議員、ミンス等は、筆者と全然違った明後日の見方をして騒いでるのが滑稽です。
ミンス「あれは断る為の方便」
マスゴミ「自民党馬鹿にされる」
自民党議員「顔洗って出直して来い」

どれも、かなりトンチンカンだと思います。

まぁ、こんなだから郵政解散の時に、解散したら自民が大勝してしまう。
って事が、誰も解らなかった訳ですからね。
正直センスが無いと思います。


と、あんまり書くと、色々問題も起きそうなので、このネタはもうお仕舞いにします。
今回は、意外と大事に成っちゃったね?って事を書きたかっただけですので…

そのまんま東、衆院選出馬の条件を出す

2009年06月23日 19時46分38秒 | 世界@名無史楽家
ちょっと真面目な話題に乗ってみます。

自民党が、今夏に予定されている、衆議院議員選挙の党候補者として、
そのまんま東コト、現宮崎県知事の、東国原英夫氏に出馬要請をしましたが、
知事が条件を出したのは、「知事連合のマニフェスト全面受託と、自民党総裁としてなら」
と言う条件を出したそうです。

もしコレを自民党が受け入れたら、普通の国民には好意的に受け入れられるでしょうから、
現在のミンス優勢の状況を一気に逆転して、
先の郵政選挙並みに、また自民党が圧勝出来るでしょうね。
ただ、知事の政治姿勢には、個人的に疑問に思う所も有るのですが、
娯楽的と言うか、野次馬的観点で見れば、そのまんま東さんは、
非常に面白い逆提案をしたな。と思いますね。

真面目な分析でも、現在の閉塞した状況よりは、何か動きが起きる!
的な可能性は感じられるので、筆者自身は真面目に試しても良いと思います。

ただ、自民党の要請に当たったのが、筆者的には今与党で一番族議員の親玉、
みたいな人が使者でしょ?
普通に、タレントに議員に成りませんか?って言うのと同じ感覚で、
軽いノリにしか思えないし、今の執行部に党を本気で改革しようなんて人は居ないと思ってるんで、
総裁を明け渡す。決断力も胆力も無いでしょ?

逆に、これを飲める位の度量が有れば、まだ党改革にも救いようを感じられますね。
お手並み拝見です。(多分ご破算に成ると思うけど…)

そのまんま東、衆院選出馬の条件を出す

トラバご意見板: 「一生に一度は訪れてみたい “海外の世界遺産” は??」

2008年05月19日 22時38分41秒 | 世界@名無史楽家
筆者が行きたい世界遺産は、やっぱり万里の長城ですね。
最近は色々と問題が有ると言われている中国ですが、
中国の歴史って言うのは、やはり日本の国の成り立ちに、
一番影響を与えた国なので、その歴史には凄く興味が有ります。

そんな中で、中国の歴史で一番の遺跡と言えば、断然この万里の長城です。

この万里の長城は、全体の距離が長い為に、凄く多面的な表情を見せる建造物です。
なので、色々な長城を観たいです。

まず、長城の出発点で有る、老龍頭長城!
東の端、渤海に突き出した長城は、まさに龍の頭の様です。
「此処から始まるのかぁ~」と感慨に耽れる事請け合いです。

そして、長城一の難攻不落の関所で有り、砦と成った、山海関!
その堅城さは、あの清の初代皇帝である、ヌルハチ、
それを継いだホンタイジですら、陥落出来ませんでした。
そして清が中原に進出したのも、陥落では無くて、
そこを守って居た守将である、呉三桂が、自ら招き入れての事。
実力で陥落するには、近代戦と成った日中戦争まで待たなければ成りません。

そして、これぞ万里の長城!と言う景色として、金山嶺長城!
程よく観光地化として整備されて居ない感じが、
天然な雰囲気で良いですね。

最後は、西方の砂漠地帯に有る、嘉峪関!
まさに砂上の楼閣と言った趣で、砂漠から観た遠景は、
幻想的な景観に見とれる事だと思います。
シルクロードの玄関口と言うのも、浪漫溢れますね。

そんな、魅力満載な、万里の長城に、筆者は一度で良いから行ってみたいです。


万里の長城(Wikipedia)★

戦国武将の末裔

2007年10月12日 17時21分49秒 | 世界@名無史楽家
こちらのblogをご覧の方々の中には、歴史(戦国時代)好きも多数居ると思われます。
そんな方々には、ちょっと面白いネタが有ったので、会社のPCから早速書きます。
実は、筆者の仕事の顧客に、戦国大名の子孫が居る事が、最近判明したのです。

実は顧客の車検証を初めて見た時から、もしや!?
とは思っていたのですが、最近その顧客と社長での雑談で、それが発覚しました。

筆者が怪しいと思ったのは、この方の名字が、とある戦国武将と同じ物だった事。

それだけなら良くある話ですが、このお客さんは、戦国大名家に多い、
大名家の創業者や、中興の祖にあやかった、先祖代々の諱の一字を継承する、
通字と思われる名前だった事。
(見ると一目で戦国武将っぽい名前だな。って感じます)

ちなみに通字とは、もっと解り易く書くと、
例えば織田信長の息子は、信忠・信雄・信孝、等の信の字です。
最近信長の子孫だと言う事で話題の、フィギアスケートの織田信成選手もそうですね。

この様に、このお客さんも、この大名家で実質創業者の人物の一字を継いでいます。
この方の実家が総本家ですので、お兄さん(長男)がこの大名家の第云代当主らしいです。
凄い!!

ちなみに、その名字は、まぁ個人情報に成っちゃうので詳しく書きませんが、
ヒントは、例に挙げた人物に関連した、伝説の城を築城した人物ですね。
ご近所にも凄い人が居たので、ビックリです。

★wiki

第三位 -唐の太宗、李世民-

2006年06月03日 13時23分35秒 | 世界@名無史楽家
長らくこの話題の更新が有りませんでしたね。
いよいよベスト3に突入です。
ここまで来ると、本当に伝説の名君。並みのレベルです。
4位の劉邦辺りから既にそうですが、この辺まで来ると、
歴史家に拠っては一番の名君である。と評価されるので、
客観的な順位はもう大差が無いのかも知れません。
なので、本当にランキングは、筆者の独断と偏見ですよ(苦笑)

 今回の唐の太宗、李世民と言うのは、日本とも遣唐使として深く交流の有った。
300の長い歴史を誇る大帝国、唐王朝の二代皇帝です。
 二代目ですが、多くの歴史研究家は、この人物が、実質的な王朝の創始者で有る。
と言う評価をして居ます。
 彼は、父で有る初代皇帝の、高祖李淵の次男ですが、
隋末期の動乱の中、父に挙兵を催したのが彼、と言う事に成っています。
 また都に攻め上って、都を占領すると、唐の全軍を指揮して、
周辺に割拠する諸群雄達と渡り合い、勢力の天下統一事業の実行役として活躍したのです。
 これらの功績で、朝臣達からの人気も絶大な物と成り、
父の補佐として、そして後継ぎとして都に留まり政務の手助けに尽力していた、
兄で皇太子の、李建成の影が薄く成ってしまい、
後継ぎを世民にしたいと願う勢力(主に世民付きの譜代家臣だが…)が有力と成ってしまいました。

 そして悲劇が起きます。
 遂に世民は、兄の建成を、宮城の入り口である、玄武門と言う所で殺してしまいます。
所謂クーデターを起こしたのですが、この事件が、完璧とも思える彼の評価を、
唯一貶めている脛の傷です。
 筆者も、この事件さえ無ければ、文句無く中国随一の皇帝と言う評価したと思います。
(しかし、逆に言えば、この事件が無ければ、彼は皇帝に成れなかった可能性が高いですがね)

 この事件の後、改め立太子をされ、直後に譲位(軟禁したと言う説も有る)されて、
遂に皇帝に即位した。

後半へつづく

劉邦が4位な訳

2006年05月17日 23時49分30秒 | 世界@名無史楽家
 勿体振ってましたが、やっと4位の記事の〆ですよ(汗)

 以下の劉邦関連記事を読むと、もう本当に完璧!
人の上に立つ究極の職業、皇帝に成るべくして生まれて来た様な人間じゃないか!!?
と感じると思います。

 筆者も、その人を惹き付ける天性の才能には、段突で有る。
と認めるところなのですが、やはり総合力と言うか、
人間の持つ才能全部の評価としては、物足りないと感じるのです。

 それは人一倍強運の持ち主。と言う事も言えるし、
(まぁ多くの創業の覇者は、多かれ少なかれ、強運を持って居ないと駄目だとは思いますが…)
この劉邦は、その感じが特に強いと感じます。
 まず、幾ら待ちのゴロツキの大将として、人望が有ったとしても、
せいぜい一介の小役人でしかない人間が、強大な統一国家に代わって、
その身分を継ぐ。と言うのは、平和な時代には有り得ないし、
特に統一国家が、過酷な中央集権制度を布く秦と言う国だったからこそだと思います。

 また、丁度良く民衆による大叛乱が有り、国家の秩序が大いに破壊された時期に世に立つ、
と言うのも凄い事です。
 更に、それだけでは、多分民衆叛乱の中の、一群雄として終わって居たでしょう。
それが丁度良く、民衆叛乱を一本化する存在として、楚の復興勢力で有る項梁が現れたのも、
凄い幸運で、その勢力に入り込む事で、有力な勢力の中の一角の人物として確立する事が出来ました。
 そして、項梁の跡を継いだ項羽の存在も、結果的に劉邦に幸運を齎した事に成ったと思います。
 確かに項羽は、劉邦の最大の宿敵でした。
 人間的実力も、劉邦よりも項羽の方が優れていたかも知れません。
しかし、項羽の苛烈で残忍・そして周辺に集まる人間を認めない性格。
と言う項羽の存在が有ったればこそ、劉邦の人徳と言うのが、
普通の時よりも引き立った様に思われて成らないのです。

 もし、劉邦の宿敵が、項羽では無くて、もっと才能も劣るが、
それ程苛烈な人間で無い者がそうだとしたら、
もしかすると、劉邦は人の良い君主で終わっていたかも知れない。
とも思えるのです。

 そう言う意味で、劉邦は実力と言うよりも、人の手助けと、強運により
天下人に成った。と言う印象を持つのです。

 ですので、その人徳と言う才能は桁外れに凄いので、上位は間違い無いが、
それ以上に上の三人は、その奇跡の人徳の才能を上回る人間的才能を持つ人間だと、
筆者は思うので、4位と言う順位にさせて頂きました。

 劉邦よりも上位に居る皇帝は、人間的な実力もそうですが、
このレベルまで来ると、それぞれ劉邦の奇跡的人徳には劣りますが、
人並み以上の人徳は持っています。ですので、総合的に判断すると、
この順位に落ち着いた。と言う事です。

 これから上位の皇帝の紹介もして行きますので、
そちらを見て、順位評価を判断して頂けたらと思います。

劉邦の生き様(後編)

2006年05月02日 23時37分40秒 | 世界@名無史楽家
下記リンクの続編です。
 関中一番乗りを果たした劉邦は、関中の主として、早速防御を固めました。
 しかし、後続の項羽は、これを見て激しく怒りました。
自らは決死の覚悟で秦軍を粉砕し、苦労しながら此処まで来たのに、
劉邦は戦らしい戦もせずに、関中の主を気取っている。と、
 この時、項羽は、秦軍主力を倒してから、日和見の叛乱勢力が挙って配下に加わってきて、
秦の投降兵の一部も加わり、四十万の大軍に成って居ました。
 かたや劉邦は、十万程の軍勢で、正面から当たれば項羽の圧勝は目に見えていました。
なので、項羽はここで一気に劉邦をも打ち破って覇業を完成させようとします。
 しかしこの動きを察知した劉邦陣営は、すぐさま少数の共の者だけで、
項羽陣営まで謝罪に伺います。
 項羽の方では、軍師が劉邦を生かすと、将来の禍根に成るので、必ず殺すべし!
と主張するが、小心者の様に平身低頭の劉邦の様子を見て、項羽は油断し、
命を助けられます。

 この後、論功行賞で、劉邦は、関中全体は手に入れられず、
関中の一部では有るが、非常に辺境地帯に有る、
漢中(関中と発音が同じ)を与えられました。
 これにより、以後劉邦は、漢王を名乗る事に成るのです。

 その後、項羽は楚王を皇帝に即位させて、義帝を名乗らせ、
自らは西楚の覇王を名乗り、天下に号令しました。
 劉邦は、漢中への道(桟道)を壊し、もうこの地から外へは出ない。
と言う事を周囲に主張して、項羽やその配下を安心させました。
 そして、項羽が油断した隙に、関中を分割統治していた三王を攻めて、
改めて関中全土を取り返しました。
 そして関中に境を接する、韓や魏も下ってきて、勢力を盛り返しました。

 その頃、項羽は義帝の存在が疎ましく成り、南方の僻地へ遷都させる途中で、
殺害させて完全に独立をしました。

 これを聞いた劉邦は、天下の主君を殺した項羽は逆賊で有る!
と各地の諸侯に檄文を送り、義帝の弔い合戦を始めました。
 これには劉邦の方に義が有り、義帝は反乱軍の殆どの勢力の主君と成って居たので、
ぞくぞくと劉邦の元に各地の勢力が集まって来ました。
 その数は六十万近い大軍に成り、一路項羽の本拠地を目指します。

 この時項羽は、東の斎が軍門に下らない為に、討伐に出掛けていて、
本拠地を留守にしていました。
 そこで劉邦が攻め込んだので、一気に落城させてしまいました。
しかしこの情報を聞きつけた項羽が、直ぐに取って返して、
勝利に浮つく劉邦の連合軍を徹底的に粉砕してしまいました。
 連合軍だった劉邦配下は、直ぐに劉邦を見限り項羽に付く者等が続出して、
結局、劉邦は命からがら逃亡する。と言う体たらくでした。
 しかし、少数の兵を引き連れて脱出した、大将軍韓信が、
別働隊を率いて、各地を転戦して各地を降して勢力を築き、項羽を撹乱したり、
蕭何が後方支援として、本拠地から絶えず兵や兵糧を劉邦へ送り続け、
組織の崩壊を食い止めて、軍師の張良が作戦を立案して、
各地の諸侯と連動して、項羽を疲弊させて行きました。
 この様にして、劉邦は戦争には連戦連敗しましたが、
組織を何度でも立て直し、何度でも項羽に挑戦して項羽と対峙し続けました。

 その内に、連戦連勝を続けていた項羽も、その強権的手法に嫌気が差す
勢力が段々と出て来て、寛大で気前の良い劉邦に、次々と鞍替えする者が多く出て来ました。
 すると持久戦に縺れ込んで、後方を撹乱されて補給が出来ない項羽は、
遂に劉邦との天下を二分する和睦を締結する事に同意します。
 しかし、この和議を部下達の進言で反故にして、
疲弊して退却中でいる、項羽に襲い掛かりました。
 弱っている所へ奇襲された項羽は、流石に堪えられずに、
遂に垓下の地に籠もり、此処で大勢が固まったと、日和見の全国の諸侯も、
一気に劉邦陣営に参じて来て、この状況に項羽も決心して、
決死の突撃をして長江を渡る手前で討たれて果てました。

 こうして、項羽との抗争に決着を着けた劉邦は、自ら皇帝に即位して、
正式に漢王朝を開闢しました。

 その後は、北方騎馬民族の匈奴を討伐して敗れ、
漢を弟国として傅き、また勢力を持って来た配下の諸侯を討伐したり、
功臣を粛清する等、晩年は暗い影を落しますが、
漢王朝を創設してその体制を固めるのに尽力して崩御しました。



 今度は、彼の筆者的魅力と、ランキングの解説をしてみたいと思います。


劉邦の生き様(前編)

劉邦の生き様(前編)

2006年05月01日 19時19分06秒 | 世界@名無史楽家
 お待たせ?致しました。下リンクの続きです。
 それでは劉邦の一生を追っていきましょう。

 彼は中国戦国時代末期、沛の近隣の町、豊の中陽里と言う場所の農家の末っ子として生まれました。
しかし、若い頃から不真面目で、家業の農作業には従事せず、近隣の沛の街に出ては、
街の不良の若者を集めて屯し遊び回る、ゴロツキの親分に成って居ました。
 その頃、秦が天下を統一して、沛の街は県庁を置かれ、沛県と成って居ました。
 ゴロツキとは言え、不思議と周囲に人望が有るので、これを活用しようと、
役所では彼を近隣の、泗水の亭長(現在で言うと町の駐在さん)に任命した。
 そして始皇帝が崩御し、二世皇帝が即位すると、更に法律は厳しくなり、
民衆を圧迫する様に成った。
 その後、都への人足を派遣する任を受け、郷里の人足を引率するが、
厳しい労働条件を恐れた人達が、次々と逃亡してしまった。
 すると、厳罰主義の法律から、自らも罪を受ける事を恐れて、以後は自らも野盗に転じた。

 更にその後、劉邦と同様に、人足を辺境の国境警備の任に着かせる為に引率していた、
農民の陳勝と呉広は、大雨で河が氾濫し、道が塞がれた為に、期日までに役目を果たせない事が解り、
死刑を受ける事を悟った。
 同じ死を受けるのならば、叛旗を翻そうと、同僚の農民達を先導して、叛乱を起こす事件が起こった。
(世界初の農民の叛乱。陳勝・呉広の乱)
 始め数千人だった暴動も、国内に民衆の怨嗟の念が燻って居た為に、
その不満は一気に連鎖して広がり、一瞬にして、数十万の大勢力に成長して、
周辺の城塞都市を次々と占領して、都を攻めると言う所までに成った。

 劉邦の地元沛でも、県令が、このまま秦の官吏として居たら、周辺の叛乱に攻め殺されると思い、
 自ら叛旗を翻す事にしたが、県の役人、蕭何の勧めで、沛の人望者、劉邦を守備軍として迎える様に進言する。
 しかし、県令は直前に成り、劉邦に身分を乗っ取られるのを恐れ、拒絶するが、
住民が県令を殺して、無事劉邦は沛に入場。
 以後、自らを沛公と名乗る事に成る。

 その後、周辺の城も幾つか支配下に納め、叛乱諸勢力の中では一角の地位は築ける様に成って居た。
 この頃、叛乱本流の、陳勝と呉広は、秦の反撃に遭い、自滅してしまって居たが、
彼らに便乗して挙兵した、旧戦国諸侯の復興勢力や、陳勝の叛乱の残党勢力が、
依然として反秦を標榜して、各地に割拠していた。
 この中で、反秦勢力で一番勢力を誇ったのが、旧楚勢力の項梁だった。
 項梁は旧楚の王族の者を担ぎ出し、楚を復活させて、正統を示し、
叛乱勢力は、大方この楚の勢力に合流する形で一本化を目指した。
劉邦も、この楚の幕下に加わるべく、合流した。
 その後、項梁は秦に敗れて命を落すが、甥の項羽がその身分を継承する事に成る。
 ここで、逆転を狙い秦攻略の方策を協議するが、この時楚王が、
「関中(秦の都周辺地域)を始めに陥落した者を、関中王とする」と宣言した事で、
一気に秦滅亡作戦が決行される事と成った。

 楚の主力は、項羽が率いる事に成り、秦の討伐軍に包囲されている、
北の趙を救援してから、一路都を目指す段取りだった。
 一方で、陽動作戦として、捨石的な軍も編成される事に成った。
この軍を指揮するのが、劉邦だった。

 項羽は、主力を持って趙を攻撃する秦の主力を壊滅させ、
一路都を目指したが、
劉邦は、兵数が少ないのを逆手に取り、
出来るだけ戦闘を避け、同調する叛乱勢力を吸収しながら、
都に急ぐ事を第一とした。
 これにより、趙救援の回り道をした主力が都に到着する前に、
劉邦は関中に入ったので有る。
 これにより、秦の三代目は、秦王として劉邦に降伏。
 劉邦が、秦王朝を滅亡させてしまったのである。

 これにより、軍中にも劉邦は、一目を置かれる存在も成り、
また、都では今まで法律で悩まされてきた住民に、
簡素な法律に切り替えて、絶大な人気を誇る事に成った。

 こうして、順風万般の様では有ったが、これが、宿敵項羽を激怒させる結果と成った。
以後、項羽との壮絶な争覇戦に突入して行く事に成る。

つづく


漢の高祖-劉邦-

第四位 -西漢の高祖、劉邦-

2006年04月27日 18時55分50秒 | 世界@名無史楽家
 いよいよ中華皇帝ランキングも佳境に入って参りました!!
筆者的には、ここら辺から、更にちょっと別格な印象を持っています。

 四位は漢の高祖、劉邦です。
 彼の事は、作家の司馬遼太郎氏が書いたベストセラー小説「項羽と劉邦」や、
漫画家の本宮ひろし氏(俺の空、や、現在大ヒット連載中の”サラリーマン金太郎”の作者)が、
「赤龍王」と言う漫画で取り上げて居るので、かなり有名だと思いますが、
 彼の事績は、秦の始皇帝崩御後の大乱を収束させ、
宿敵項羽との覇権争いを制して、前後四百年に及ぶ中国の大帝国、
『漢』王朝を打ち建てた。と言う事でしょう。
 また、中国の歴史では、庶民から身を起こして、
皇帝に即位した人物を数人輩出して居ますが、
その中でも、天下統一を成し遂げたのは、彼と、朱元璋の二人だけです。

 彼の凄い所は、普通の感覚で言うと、所謂”駄目人間”だと言う事です。
 ダラシが無いし、ぐーたらで、責任感も余り無く、女が滅法大好き。
そんな駄目人間なのに、庶民から身を起こし、四百年に及ぶ大帝国の初代皇帝として、
天下を統一してしまう。 凄い事ですよね?(笑)

 純粋に彼の才能として見たら、筆者が挙げたランキングの十人の中では、
多分一番劣る人物かも知れません。
 しかし、彼が凄いのは、人の上に立つ能力。人を束ねる能力。人を惹き付ける能力。
と言う、要は人を束ねると言う才能を生かす上で、一番発揮し得るで有ろう身分、
皇帝に成る才能を一番備えていたのが、彼だったのです。
 そう言う意味で、人を惹き付ける魅力だけで言えば、この十人の中ではダントツに
抜きん出ていた人物だと思います。

 その才能と魅力のギャップと言うのが、本当に奇跡の様な感じに見えるし、
また、時代も、彼が皇帝に成るべくして成った。と思わせる時代で、
 偶然と言うには、ちょっと出来過ぎた時代に見えるのです。
もしこの世に天意と言う物が有るのなら、本当に彼の存在は、天意を感じずには居れません。


 ちょっと長く成りそうなので、今回からは数回に分けて書こうと思います。
 まず彼の一生を振り返り。次に彼の魅力を表すエピソード等を書き、
最後に総評として、ランキングの評価理由を書きたいと思います。


 それでは、彼の一生を纏めて見ましょう…

(つづく)

第五位 -宋の太祖、趙匡胤-

2006年04月20日 23時49分40秒 | 世界@名無史楽家
 第五位は南北で併せて約三百年続いた、宋王朝の創始者、趙匡胤です。
 実は今回のランキングでエントリーされて居る皇帝で、
彼が唯一、天下を統一して居ない皇帝なのです。
まぁ細かい話ですが…
(もっと細かい話をすると、始皇帝も実は正確には天下を統一してませんが…)

 宋が天下を統一したのは、二代皇帝の太宗、弟の趙(匡義)でした。
しかし、趙匡胤の時代に、殆ど五代十国の動乱は収束に向かって居たし、
彼が宋の諸制度を整備して、それもほぼ終わっていたので、
実質天下人と考えても差し支え無いと思いました。
 しかし、実は一説には、趙匡胤はその人徳から象徴の様に扱われただけで、
実際に宋の実権を握ってモロモロの統一事業や改革を行ったのは、
弟の趙匡義だと言う説も有るので、実際に天下統一も完成させている、
趙(匡義)と、この五位の受賞をどっちにするか悩んだ部分も有るのですが、
趙は少し黒い噂も多く、陰気な印象も有ります。
また、趙匡胤だからこそ丸く収まった。と言うエピソードも多く、
趙匡胤は明るい皇帝のイメージが有ります。
 そう言う事で、兄の趙匡胤をランクインさせました。

 彼は五代十国の動乱期から出て来た武人の、典型の様な登場の仕方をします。
彼の父親も後唐の将軍で、武人の家に生まれました。
その後成人して各地に仕官の口を求める旅に出掛けますが、
その中で、漢の将軍、郭威が広く天下に豪傑を求める募兵をして居たので、
彼に仕官しました。
 その後郭威は、漢を引き継ぐ周の皇帝として即位、
その義子で有る柴栄に見込まれて、親衛隊の隊長の様な身分に成る等、
トントン拍子で出世して行きます。
 勿論、この間は色々な戦場に主君と共に転戦して、
目覚しい戦功を挙げて居たからに他成りません。

 そんな中、柴栄が若くして亡く成り、まだ少年の、子の宗訓が即位すると、
群雄割拠の乱世で、幼君では心許ない。として、
朝廷内や兵の中では、不安に動揺する者が多く出て来ます。
 そんな中、敵襲が有り、近衛軍を率いて出陣する事に成った匡胤ですが、
途中軍を営所で休ませる事にしましたが、そこでとんでも無い事件が起こります。
 営所で諸将と酒を飲み、気持ち良く成って寝入った匡胤に、
諸将が、匡胤に黄色いマント(皇帝の証)を被せて、万歳三唱をしてしまったのです。
 これで事後承諾の様に成ってしまい、躊躇すれば謀反と成り、
もう後戻りは出来なく成りました。
 そこで軍を都へ帰し、朝廷に参内して、帝から禅譲を受け、皇帝に即位してしまったのです。
酒に酔っ払って居る隙に皇帝にさせられていた。
と言う、何とも凄いエピソードです。
 しかも、この様に力ずくで無く皆に推されて成る、と言う穏便な形での政権交代だったのと、
趙匡胤の人柄も有り、殆ど血を流さずに事が進んだ。
と言うのも、彼ならではだと思います。

 皇帝に即位すると、柴栄もして居ましたが、更に近衛軍の強化を図り、
有力部下の精鋭兵を引き抜いたり、取り上げる等して、近衛軍に編入させたりして、
皇帝の軍事力を強化して、将軍の兵力を削減しました。
 またその将軍から軍事力を取り上げるにも、おとぼけな面白いエピソードが有ります。
酒宴の席で、酔っ払って愚痴を言う様にして、自然と部下が兵力を削減する様にしたのです。
それは、部下が皇帝に成ってそれを祝賀するのですが、匡胤は不安気な顔で、
「皇帝に成れば、気分が良いと思ったが、逆に不安でおちおち寝れない」とこぼす。
すると部下は、「我々は忠臣ですので、陛下に弓を引く気は全く無いので安心して下さい」
と宥めると
匡胤は、「お前達が忠臣なのは解って居るが、
お前達の部下が、勝手にお前達に黄色いマントを着せて、万歳三唱してしまったら、
流石にお前達も断われないだろう?」とこぼすと、
部下達は、ハ!と気付き、匡胤に、ではどの様にすれば不安がらせないで大丈夫なのか?
と聞くと、「もう良い身分なので、野心が無ければ、文官として良い土地の長官に赴任すれば、
その給料で良い土地も購入できて広大な地主に成れる。
そうすれば、あとは一族が悠々自適に一生暮らせて幸せに成れると思うが」
と言う様な事を言うと、皆争って文官として赴任する事を希望した。
と言う事が有った。
 この様に、酒を使ったりして、穏便に部下に権力の委譲をさせて行ったのは、
なかなか凄い人だと思う。
 また、今までの中国の歴史だと、禅譲で譲られた以前の主君で有る、前王朝の皇族は、
用が済むと暗殺される事が多かったのだが、彼は前王朝を、
宋王朝の遺訓として、代々大切に保護する様に、として居る。
 実際に周の皇族は、モンゴル帝国に宋が滅ぼされるその時まで、
宋の皇族と共に存続した。
 また、官僚制度の改革を行い、科挙の最終試験には、皇帝自ら面接試験を行って、
官僚の合格者を選抜したりした。
 この制度の始まりは、趙匡胤からの制度だ。
 また、官僚は国の根幹である為、言論の自由を国是とし、
皇帝で有っても、言論に起因する事で、人を殺めては成らない。
と言う事も定めた。
 この様に、色々な思想や意見を尊重し、官僚を優遇した事で、
非常に強固な官僚組織を作る事が出来た。
 また、歴代の創始者は、創業が成ると、創業の功臣を少なからず粛清する者だが、
この趙匡胤は、第1位に成っている劉秀と並び、数少ない粛清をしなかった皇帝だった。
 しかし逆に、官僚優遇(文治主義)に偏り過ぎ、軍縮等で武を軽んじて居た為に、
その軍隊は、歴代王朝でも最弱と評価を受ける事もしばしばで有った。

 これにより周辺諸国と戦争すれば必ず負けてしまう体たらくで、
これにより、周辺の遼や、金、西夏、蒙古等の侵攻に、常に悩まされた。
それで、蒙古以外の国々には、毎年大量の賠償金を支払わされる事態に成った。
 が、その代わり、戦争をせずに、国は長く平和を維持する事が出来た。
 この頃の宋は、歴代中国王朝の中でも、一番経済的には充実した時期で、
経済力は特出した物が有った様だ。
 軍事力は弱いが、経済力は一級。言わば、お金で平和を買って居たと言えなくも無い。
 また、この王朝の首都は、江南からの物資が運河に因って集積される、
経済の要衝、開封を都としていて、前代の都、長安は、政治都市として世界に広く誇示して居たが、
この街は、まさに経済の都だった。
 中国全土から商人が集まり、夜も屋台や商店が閉まる事も無く、
夜中じゅうも、街の灯かりが消える事が無い。と言う様な活況を呈して居たと言う。
 まさに不夜城で有った。

 また、開封の都は、国内複数の大都市の中で、東方に位置して居た為、
別名、東京(トンキン)とも呼ばれて居た。
 まさに、「眠らない街、東京」で有る(笑)
(どこかのサッカーチームの応援歌みたいだな(苦笑))

 この様に、お金で平和を買う。不夜城の都を持つ。等、するので、
よく宋王朝は、現在の日本と類似している。と言う指摘も有る。

 とにかく、そんな平和を謳歌する。と言う方向性も、何だか王朝創始者の趙匡胤が
作った王朝。と言う感じがして、争いを好まない彼の性格を現して居る様で、その点は好感が持てる。

 ここまで書くと、すこし平和ボケの元凶の皇帝にも感じるが、
皇帝に即位するまでは、獅子奮迅の働きにより、群雄割拠の動乱を納める為に大活躍して居るし、
周の下地を受け継いで居る。とは言え、周辺諸国を降す為の手腕も見事なものだった。
 これらの軍事的才能は、彼よりも下位にランクされている皇帝達よりも、
優れた才能だと評価している。なので、5位と言う事で、評価させて頂きました。

 本当ならば、下済み時代の武勇伝もかなり色々面白いのですが、
文章の分量の関係上、今回は割愛させて頂きました。
 詳しくは、筆者が開設して居る中国の群雄割拠ページで、将来もっと詳細に、
彼の列伝として文章にしたいと思って居ますので、期待せずに(汗)更新を気長に御待ち下さい(苦笑)

第六位 -明の成祖、永楽帝-

2006年04月18日 23時22分00秒 | 世界@名無史楽家
 六位は明の第三代皇帝、朱棣です。
 彼の事績は、明王朝の最盛期を作り出し、
亜細亜を始め遠くアフリカにまで覇を唱えて、
周辺諸国を冊封して宗主国たらんとした。

 初め彼は、父の朱元璋(太祖洪武帝)の四男として生まれ、
その武勇を見込まれ、蒙古との国境地帯、燕の地を任され、
北平を拠点とした。

 代が代り、甥の建文帝が即位すると、建文帝は周辺の諸王と成って居る
叔父達が、自らの地位を脅かすのでは?と思い、次々と叔父達の位を剥奪して行った。
この動きに危機を感じた朱棣は、「君側の奸を取り除く」として、挙兵しました。
 自らの軍を、挙兵の大義名分の意味を込めて、靖難軍と名乗りました。
これを”靖難の変”と言います。

 建文帝は叔父殺しの汚名を恐れて本気で討伐しないで居る内に、
遂には都の応天府(南京)を包囲され、宮殿に火を放ち陥されてしまいました。
 都を陥した朱棣は、皇帝に即位して、都も地元の北平に移し、
北京(順天府)と改称しました。

 そして、父は内政と農民保護の農本主義を重視して、
国の礎を固めましたが、彼は逆に拡大路線・商業主義を標榜して、
大いに外国との関わりを積極的に行いました。
 まず挙げられるのが、宦官の鄭和を司令官にして、南海への
大使節船団を送りました。
 これにより、東南亜細亜を始め、印度や遠くアフリカの国々まで、
明に朝貢の使節を送って来る様に成りました。
彼らの領主を、宗主国として現地の王に任命すると言う冊封体制を布き、
世界に力を誇示しました。
 我が国日本でも、足利義満が日本国王として冊封たのが、
勘合貿易として有名です。

 この南海遠征は、後に欧州で活発化する、大航海時代を
先んずる事半世紀ですので、その点でも、凄い事だと思います。

 また、歴代王朝が苦しめられて来た北方騎馬民族のタタールとオイラートを、
中国皇帝史上初めて、自ら親征して討伐して成果を挙げたのも、
朱棣が最初です。
 また、近年独立して居たヴェトナムも征服して、唐以来の
中国直轄領としたりして、その領土は明王朝史上の、最大版図を実現しました。

 ただ、欠点も多かった事も事実です。
第一に、身を護る為とは言え、甥の建文帝に逆らって殺めたのは事実ですし、
 しまいには建文帝自体を、歴史の記録から抹消しようとさえしました。
 また、甥から位を奪ったその事を臣下に指摘された時は、その臣下の家族親戚、
働いて居る者にまで及び、皆殺しにしてしまいました。

 そして、宦官の重用です。
 父の朱元璋は、過去の多くの王朝の末期には、宦官が権力を握り、
政治が腐敗して滅んだ事を鑑み、宦官を卑賤な者として蔑む様、
国訓として居ましたが、
朱棣はその蔑まされて居た宦官に排除されそうな情報を得たり、
南京陥落の手助けをして貰った等した事から、宦官を重用しました。
 この頃は、鄭和を始めとした有能な宦官が仕えていたので、
問題は無かったのですが、これにより代々宦官を重用する気風が出来、
朱元璋が危惧した通り、その末期には宦官の汚職と跋扈が、
国を滅ぼす主な原因と成ってしまった事です。
 ただこれは遠い未来の事なので、かの一人の責任とするのは、
かなり酷かも知れませんね。

 またこれら欠点は有った物の、三代目で有りながら、実力で皇帝に即位した事。
外征を自ら指揮して大成功を収めた事。
 諸外国と交流して、世界中に覇を唱えた事。
 内政でも永楽大典を編纂して文化を発展させる等します。
そして王朝の最盛期を作り上げ、最大版図として事等は、
凄いと思います。
 ですので、彼をランクインさせました。

 蛇足ですが、実はランクを作った後に思ったのですが、
七位の康熙帝と、永楽帝だと、康熙帝の方が皇帝・人間としては立派で、
ランクが上じゃ無いかな?と、ふと思いました。
 始めは、実際に軍を動かして皇帝の座を奪ったので、
実力が有る。として上位にしたのですが、
康熙帝だって親征して居るし、総合的に見るとやはり康熙帝かな?と…
 なので、彼との順位はどっちでもOKと言う事で(苦笑)
 
 でも凄いのが、二位にもランクインして居る朱元璋!
彼とは親子です。
 中国四千年の歴史の中で、十位の中に親子二代で入って居るって言うのは、
かなり凄い一家じゃないかな?って思いました。(まぁランク作っているのは筆者なんですが…(苦笑))

第七位 -清の聖祖、康熙帝-

2006年04月16日 17時11分30秒 | 世界@名無史楽家
7位は中国最後の王朝、清の康熙帝、愛新覚羅玄(アイシンギョロ ゲンヨウ)です。
 アイシンギョロと言う読み方に付いては、満州語での発音なので、
日本では公家からラストエンペラーの皇弟に嫁いだ事で有名な、愛新覚羅浩さんが居るので、
アイシンカクラの方が、馴染みが有ると思いますね?

 玄は清帝国の第三代皇帝ですが、後金の太祖、弩爾哈斉(ヌルハチ)から数えると四代目です。
 彼の事績は、清を中華帝国として確立、中国大陸を統一した事です。
更に外征をして、清の最大領土への礎を築いた事です。

 確かに先代までの遺産を、この玄も受け継いでの創業ですが、
彼も少年時代(7歳)に即位する事に成り、最初は朝廷の権臣に従って居ました。
しかし暫らくして、相撲が趣味と言う様に見せかけて力士を育成し、
その実は親衛隊を育成していて、時期を見てその力士に見せ掛けた親衛隊に、
権臣を排除させて朝廷の実権を取り戻して親政を始めました。

 何となく始皇帝に通じる所が有りますが、彼は成人してから実権を握りましたが、
玄は少年時代に、それを策して、実行に移した所は、yはり非凡だと思います。

 その後、国内の統一戦の仕上げに取り掛かります。
 実は当時の中国大陸は、玄の父、福臨の時代に、ほぼ征服は完了はして居たのですが、
まだ前王朝の残明勢力が残って居ました。
 主な勢力は、台湾と一部大陸に勢力を持つ、鄭成功の一族である鄭家。
 ビルマに亡命した明の皇族永明王、そして清の内部でも、明を裏切って清に付いて勢力を誇る、漢人諸王等も不気味な存在。
 そんな中、漢人諸王が領土を将来的に取り上げられると知って、独立戦争を仕掛けて来ました。
 これが呉三桂を中心に起こった三藩の乱です。
 これらと、台湾の鄭家を降伏させ、国内の統一を成し遂げます。
 外征では蒙古高原のカルカ部族や、チベットに侵入したジュンガル部族等を討伐して、
ダライラマを助ける等して、蒙古高原やチベット、トルファン周辺の西域をも勢力に置きました。
 また、蒙古高原とシベリア近辺では、この頃露西亜人が進出して、彼らの活動が活発に成って居ました。
 そして露西亜軍とも戦い、西洋の軍隊を破って居ます。
 そして露西亜(の名君ピョートル一世)と平等条約を結び、有利な国境を定めました。
こうして満州はオホーツク海沿岸、北はシベリア付近までを勢力に納めました。
西では、彼の孫で有る乾隆帝が、ジュンガル部族を破り、西域を治めて帝国最大版図を実現させた。
と言う事に成っていますが、西域もジュンガル部族も、実は玄が征服して居るので、
乾隆帝は領内の叛乱を鎮圧しただけ、と言う様にも取れるわけです。
 ですので、帝国最大版図の(礎)実現は、玄が成し遂げた、と言っても過言では無いと思います。

 また、ここまでだと軍事的才能しか注目して居ませんが、内政も素晴らしい手腕を発揮しました。
 まず財政の緊縮を進め、予算の支出を前王朝の明の、約40分の1にまで切り詰めたり、
宣教師のイエズス会を保護して、彼らを通じ最新の兵器を取り寄せたり、先進の科学知識を取り入れました。
 また学問に力を入れて百科事典の「古今図書集成」や、字典の「康熙字典」を編纂させました。
 そして、国内の経済動脈で有る南北を結ぶ大運河の修復や、氾濫で悩ます黄河の大治水工事を行う等、
民衆が穏やかに暮らす為の政治を心掛けました。

 こうした事績は、歴史家に因っては、中国史上最高の名君。
と賞賛する人も多く居ます。
 なので、筆者も文句なくランクインさせました。

 ただ、惜しくも筆者の琴線に触れなかったのは、弩爾哈斉の創業・部族統一戦、宗主国独立戦。
皇太極の始祖を継ぐ発展事業。福臨の中国大陸征服戦。
等の、創業に関わる本格的戦いを経験しなかった。と言う事と、
”文字の獄”と言う言論統制を行った。と言うこの二点だけです。

 まぁ後者は、異民族国家なので、漢人を統制するには致し方無い事だったのかも知れません。

残念!!

第八位 -漢の武帝-

2006年04月11日 21時49分24秒 | 世界@名無史楽家
 第八位は、(西)漢の武帝、劉徹です。
 西漢と言うのは、日本の歴史教科書では、所謂”前漢”と呼ばれて居た時代です。
まぁ普通に漢と言った方が語感が良いので、以後は漢とします。
 劉徹は、この帝国の最盛期(最大版図)を作り出した皇帝で、
その遺業から、太陽王と呼ばれたりもして居ます。(何処かのサッカーチームみたいだ)

 劉徹は、初代皇帝で有る高祖劉邦(4位にランクイン)の曾孫に当たります。
 漢は天下統一後は、暫らくは動乱の影響や、周辺諸侯の反発等で、国内が不安定でした。
 そこへ北方騎馬民族帝国の匈奴に圧迫され、海外との派遣争いよりも、
国内の安定を重視した為、初期は匈奴へ貢物を送り、対外的な平和を維持しました。
その後、文帝・景帝と、国力増強と、国内安定に努め、
劉徹が即位する頃には、有力な諸侯を滅ぼして安定し、平和で国内も生産力増加して、
国力が充実した時代でした。
 そんな中、劉徹は若干十代の若さで即位すると、
その若さを生かす様に、自らの代では対外的に反転攻勢に移る様に、
政策を転換させました。

 有能な部下、衛青や霍去病を登用して匈奴を討伐させたり、
李広利に西方の大宛(フォルガナ)に遠征に行かせたり、
張騫に大月氏国と同盟させる為に、西方へ使いを送り、
西域諸国の状況を探らせました。
 こうして、周辺諸国に次々に遠征させ、領土を拡大して、
文字通り、亜細亜の超大国としての地位を磐石にしました。
 これに因り、東は朝鮮半島の殆どを有し、
西は西域都護を置き、西域全域に影響力を示し、
北は蒙古高原に影響力を発揮し、南はヴェトナムまでを領しました。

 また内政的には、儒教を国教として、道徳を国内に広め、
人心の安定を図りました。

 その即位年数でも、中国歴代皇帝の中でも有数の長さを誇り、
永きに渡って朝廷に君臨しました。

 この様な実績を残したので、ランクインです。
しかし順位がそんなに上位で無いのは、やはり前代からの遺産で事業を開始している事と、
余りにも長期の政権だった為に、晩年は老害の為に失政を犯した事。
特に軍事大国としては遺業を達成しましたが、その分軍事費に相当の予算を占める様に成り、
その予算を捻出する為に、増税に継ぐ増税で、庶民の生活面と言う意味では、
決して良い時代では無かったと言えるかも知れません。
 そう言う意味で、この順位に落ち着きました。

第九位 -隋の文帝-

2006年04月10日 02時36分41秒 | 世界@名無史楽家
 九位としてランクインさせたのは、隋の文帝”楊堅”です。
実はこの文帝、十位にランクインして居る始皇帝と、ちょっと状況が似て居るのです。
 と言うのは、実はこの隋王朝の創始者で有る文帝は、
東漢末から勃発した、凡そ四百年に及ぶ、中国の大分裂時代を統一した皇帝なのです。

 隋の前の時代区分は、南北朝時代。なので、イメージ的には有る程度収束されている。
と言う印象が有るかも知れませんが、この大分裂時代と言うのが、
国内の動乱と言うよりも、多数の異民族が流入して、その民族がそれぞれ王朝を作り、
興亡した。と言う状況だったので、西の欧州で起きていた、ゲルマン民族大移動を切っ掛けに、
(西)ローマ帝国が滅んでしまった。
と言う状況にそっくりです。
 なので、多民族の国家の興亡だったので、まさに再び中国と言う概念が、
崩されかねない状況だった訳です。
 また、動乱後半の南北朝の北朝は、その異民族国家の中で勝ち残った”北魏”だったので、
五胡十六国の流れを継承している訳です。
 その、北朝の漢人将軍家に生まれ、頭角を表し、自らの娘を皇帝の后とさせて、
朝廷内で権力を高め、やがて王朝を乗っ取るのです。

 しかし、王朝を乗っ取った時点でも、まだ天下は定まって居らず、
隋が南朝を滅ぼして、天下を取る訳です。

 隋も前王朝の屋台骨を引き継いでの出発なので、他の創業の皇帝よりは、
比較的簡単だったろう。と考えます。
しかし何故、十位の始皇帝よりも上位にしたかと言えば、
 皇帝にまで登り詰めるまで、彼独自に、そこに至るまでの策略や方策を講じて居る事、
皇帝に成ってから、天下を統一させる為に、これも並大抵では有りません。

 実は、南北朝と一言で言いますが、南北朝末期は、王朝が二つでは無く、
北朝で更に東西に分裂し、南朝も前王朝の残存勢力の王朝が存在する等、
正確には四つの王朝が存在しました。
 楊堅が将軍として世に出たのは、その様な状況の時代、
実際、楊堅も、各王朝を滅ぼすのに活躍しています。
 この様に、実際に自分で動いて働いたりもして居る訳です。、
 そして、皇帝に登り詰め、天下を統一すると、それぞれに、天下国家に成る為の改革や、
新政策の発案を行って居る事です。

 隋の王朝自体は、彼の息子の代で滅んでしまいますが、
その方向性と言うのは、次の唐にも多く引き継がれました。
彼の残した事業で、一番後の歴史にも影響を与えたのが、選挙(後の科挙)でしょう。
 それまでは、普通の君主国家の様に、王朝に仕える者は、
皆、門閥貴族等の富裕層でした。

 それを、試験により官僚の採用試験を行った事です。
これにより、貴族で無い者にも、有能で有れば、国家の禄を食む事が出来るチャンスが出来ました。
 また、天下国家として諸制度を纏め、唐の専売特許の様に成っている律令制度の礎を作りました。
ちなみに律令制度は、後に我が国でも採用されています。

 この様に、比較的簡単に前王朝を引き継ぎながら、実際に自分で動く苦労もし、
更に皇帝と成った後には、後の王朝にも影響を与える天下国家としての、
諸制度の発案・改革を行った手腕は、やはり中国の皇帝の十指には入るでしょう。
 そしてその様な理由で、始皇帝よりも一つ上として評価させて頂きました。

第十位 -秦の始皇帝-

2006年04月08日 01時16分37秒 | 世界@名無史楽家
 昨日書いた皇帝の中でも、この皇帝の名前は、
流石に一度は耳にした事が有ると思います。
(でも他の皇帝も、良く考えたら大体の世界史の教科書(資料集)には載ってますね(汗))

 この皇帝は何をしたかと言えば、
その名前からも解る通り、中国で初めて”皇帝”を名乗った人物です。
そして、中国を史上初めて、統一を成し遂げた人でも有ります。

 それまでの中国と言うのは、ひょっとして今の様な”中国”
と言う概念すら無かったかも知れません。
 それまでは、話す言葉も微妙に違いますし、
文字も違いました。(それぞれ漢字の様な文字は使ってましたが)
物の単位も違うし、他にも色々な物が違っていました。

 そう、言うなれば、中国と言う一つの国の概念より、
中世から現代までの欧州の様に、似通った文化を持った国家群がある、
一つの地域。と言った感じです。

 多分、始皇帝が居なくても、秦の強盛は変わらないので、
いつかはこの地域は統一される可能性が高かったとは思いますが、
しかし、もし統一されなければ、現在の欧州の様に、
中国、はたまた亜細亜も、かなり多様で、混沌とした地域に成って居たのかも知れません。
そう考えると、ちょっと面白いですね。

 兎に角、彼の中国統一(中央集権国家建設)で、
様々な物を統一し、一つの国家として、この地域に確固たる”中国”
と言う概念を確立させる切っ掛けを作りました。
 これにより、地域だったのが、国として確立され、
また、亜細亜内で強大な先進国家と成る事で、
周辺諸国や地域に、宗主国的な価値観を生み出す等、
 彼のした事は、中国のみ成らず、その周辺国家にまで、
後々影響を残したと思います。

 その、中国統一事業と、皇帝と言う身分を創出、そして即位。
と言う事を、実際に成し遂げた事は、やはり中国皇帝史の中でも、
十指に入る事は間違い無いでしょう。
 しかし、その事業が壮大なのに比べて、何故筆者は十位。と言う、
ランクの中でも一番低いのか?と言えば、
 それは、その事業が、彼一人の資質に基づいて行われた部分が、
余り多くは無いのじゃないかな?と感じるからです。

 彼の生まれる前から、秦は中央集権地方国家として、
緻密な官僚制度を確立して居たし、彼が即位した当時は、
秦は既に統一期の内の、半分以上を領土として保持して居ました。
(半分以上と言う事は、ミリタリーバランスから言って、殆ど統一寸前の状態)
 また、その事業は、組織力に基づいた部下達の活躍が大きいと思われるからです。
 そして、良く彼が行った有名な事業として、”万里の長城”建設が有りますが、
これも正確には、戦国時代の各王朝が建設して居た長城を、
改めて修築した。と言った程度のものです。

 秦は伝統的に、悪の帝国の様なイメージが有り、
余り名君の様な君主は現れないのですが、
名君的な個人の資質で言えば、秦の名君と言えば、”春秋の五覇”(メンツは諸説有る)
にも数えられる穆公。
 商鞅を抜擢して、法律を整備し、法治国家として富国強兵を成し遂げ、
”戦国の七雄”の地位を確立させた孝公。
の方が立派だと思います。

 そう言う意味で、このランクでは、十位にさせて頂きました。

 彼には、生い立ちとか、色々とドラマと成る話が多いのですが、
今回は皇帝ランキングの順位解説の意味での記事なので、
またの機会に譲ります。(書くかどうかは分かりませんが…)