今日は談合ブレストを一休みして、大津の自殺問題を論じてみたい。
今回に限らないが、いじめ自殺が起きたとき、必ず問題になるのが、学校、教育委員会関係者の事なかれ主義と隠ぺい体質である。 亡くなった子の父親が、裁判を起こしたから次々と暴露されたが、もし裁判になっていなかったら、いじめ(というより今回は完全な自殺教唆だろう)の事実は闇に葬られていたと思う。
5年前に起きた大相撲リンチ(かわいがり)殺人の時もそうだったが、人材の流動性が少ない組織や業界では、事なかれ主義と隠ぺい体質が蔓延する危険が常にある。 この道一筋〇十年という職人文化を重んじる日本では、組織や職業を渡り歩くのを基本的に良しとしない。 とくに、権威、権力のある組織、業界ほど、伝統と年功序列が重んじられ、さらに、終身雇用制度のもと、新卒採用と定年退職以外の人材新陳代謝が存在しない。 第三者の監視や価値観が入りにくく、内輪だけの理屈と利害、人間関係だけが重視され、まさに『死人に口なし』、死んだ者に全責任をかぶせて関係者全員が知らぬ存ぜぬを決め込むのだ。
それでも民間企業には、企業間競争という厳しい現実がある。 組織内部の理屈だけを主張することはできない。 そんなことをしていたら遅かれ早かれ市場競争で淘汰されるだけだ。 ところが、親方日の丸組織には、倒産失業リスクは存在しない。 徹頭徹尾、内輪の理屈と利害、人間関係だけが重視される。
ほとんどの人間は二つのカンジョウで動くから、内部だけの好感情が偏重され、そして『組織の利益=自分の利益』という損得勘定から、一致団結して組織に都合の悪いことは隠ぺいしにかかる。 定年まで同じ人間関係が続くと思えば、だれも(賢い人ほど)内部で波風が立つような正論を言うはずがない。
ただし、戦前は公に対する責任というものが当たり前のように教育されていた。 さらに、公的職業につく者は、たとえ給料が安くても国家、社会、公のために奉職しようという理想があった。 ところが、敗戦によって個人を越えた価値観がすべて否定され、唯一残ったのは、『人に迷惑をかけない』という思いやり道徳だけだった。 思いやり道徳は、具体的な人間関係だけにしか適用できないから、普段の人間関係を越えた普遍的善悪を汲み取ることができない。
結果として、個人的な付き合いでは評判の高い、思いやりのある人ほど、組織を守るため積極的に隠ぺい工作を行うことになる。
今日はここまでにします。 おやすみなさい。
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