さて、 私たちはこれからまる1日にかけて
帰ります。
マドリード空港から7時間 ドーハへ。
ドーハから10時間半 成田へ。
でも来る時よりも偏西風の関係で時間短縮です。
スペインは平均所得320万というが
ずっと豊かに感じられたのはなぜだろう。
街中が美しく、 小さなお店も素敵だった。
思い出に浸るときりがない。
帰りの時間はそんなに長く感じられなかった。
長いような短いような旅だった。
さて、 私たちはこれからまる1日にかけて
帰ります。
マドリード空港から7時間 ドーハへ。
ドーハから10時間半 成田へ。
でも来る時よりも偏西風の関係で時間短縮です。
スペインは平均所得320万というが
ずっと豊かに感じられたのはなぜだろう。
街中が美しく、 小さなお店も素敵だった。
思い出に浸るときりがない。
帰りの時間はそんなに長く感じられなかった。
長いような短いような旅だった。
スペイン旅行最終日は
マドリードの市内観光
「スペイン広場(ドン・キホーテの騎馬像がたっていた。)」
「王宮」
マドリードの中心地 「マヨール広場」へ
ここらの建造物はすべて年代物で その彫刻に驚いた。
ほとんどの建物に彫刻が施してあり、
ぞう、 ライオン、 女神など。 ビルの上には 馬車までも。
それらをアパートとして暮らしているようだ。
ユダの木(花すおう)が街路樹として植えられ、 あちこちで花が咲いていた。
キリストの「最後の審判」で裏切ったユダはこの木で首を吊ったので
ユダの木と名付けられたということだ。
マヨール広場の周りの建物もアパートになっているらしい。
世界遺産の大事な建造物を大切に大切に守りながら
暮らしていることが伺える。
そしていよいよプラド美術館へ。
ゴヤの「裸のマヤ」 「着衣のマヤ」
(二つ並んで陳列、 貸し出しが多く二つあることは稀らしい)
ベラスケスの「ラス・メニーナス」(女官たち)を観た。
学生時代の美術の教科書に載っていたね。
ふぅ~ん。 すごいね~。
この美術館の展示品の多さにびっくり。
ゆっくりゆっくり観てみたい。
ここを全部見るには3~4日は 必要だろう。
もっともっと ゆっくりみていたいが ここがツアーの
哀しいところ。
最期の食事はイベリコ豚。 かみごたえの豚肉だった。
最期のワインで、
歴史の重みスペインに乾杯
心豊かになって帰途に就いた。
感想 : す・ご・か・っ・た。(何が?)
すべてが。
スペイン旅行7日目は
スペインに戻り トレド、 マドリードへ。
朝から何時間も走っているが広大な牧場が続き、
時々 こうのとりを見かけた。
なかなか 写真に収められない。
コルクの木を初めてみたが、 下の部分は
皮がはがされている。
大丈夫なの?
オリーブ畑、 コルク畑、 オレンジ畑が続く。
地平線が見えるがそこまでオリーブ畑。
広いな~ぁ。
国土は日本の1.3倍
人口は約4.6千万らしい。
(シレナデグレイト山に写っているのがコルクの木)
トレドに着くとそこもまた、川に囲まれた古代都市だった。
町中を歩くが 道幅がせまく 迷路のよう。
タイムスリップした。
おみやげは 象嵌細工、刃物など。
(象嵌細工はその後日本に伝わり螺鈿などに発展したという)
イスラエル、 ユダヤ、キリスト教の融合した歴史を
感じさせる古い古い街だった。
ここのサント・トメ教会には
エル・グレコのフレスコ画 「オルガス・伯爵の埋蔵」が収蔵されている。
夜はマドリードでタパス(小皿)料理
いよいよこの旅行も 明日で最後。
疲れてきた。
でも トレド美術館が楽しみ。
しかし、 天気には 本当に恵まれた。
スペイン旅行6日目は
ポルトガル・リスボンの市内観光
「ジェロニモス修道院」(大航海時代の富をつぎ込んだ建造物)
「発見のモニュメント」
「ベレンの塔へ」
ヨーロッパに来て歴史の蓄積を感じる。
すべてが1日にしてならず。
そしてナザレへ
ナザレは普通のバカンス保養地となっていて
哀愁は感じられなかった。
(ナザレは哀愁を漂わせる漁村ということだったが…
映画の舞台となったことがあるようだ。)
お昼にイワシの塩焼き料理という事で大きなお皿に
イワシの塩焼き3匹ジャガイモ2個をごろっとした状態で出されて
えっ、 ナイフとフォークは必要なの?
これって漁師料理でしょ。
でも考えてみたら お箸はないものね.
どうも私たちは ナイフとフォークで食べるものは
「ごちそう」という固定観念があるようだ。
ここナザレはすっかり夏で26~27度C
海岸で遊ぶ人々も多かった。
それからカセレスへ向かった。(310KM) 遠かった。
カセレスは街全体が古い街で ここでも キリストの行事が。
ホテルの窓からちょうど キリストと思われる男の人が
十字架を背負っていくのが見えた。
私たちの荷物はワゴン車が運んでくれることになっていたが
お祭りの為、 車両通行止め、 自分でゴロゴロ押していくことに。
しかし、 そのため 夜は飲み放題(ホテルのサービス)となった。
(またまたワイン飲み放題)
ここでは朝8時頃は まだ薄暗く、夜は10時近くまで明るい。
朝、 ホテルの周りを散歩してみると
可愛いお店がいっぱい。
中世の面影がそのまま残り、 町の中心に大きな教会
1つ1つのお店には可愛らしいディスプレーが。
ゆっくり買い物をしてみたい場所だった。
私の中では印象に残るかわいらしい街だった。
明日はトレド マドリッドへ。
スペイン旅行5日目は
ポルトガルへいった。
国境を越え、 シントラへ。 (国境って柵とかがある訳ではないのね)
やっと 川を見る。
岩山だらけのスペインからポルトガルへ。
(今までの川には 水がなかった。)
途中、羊、 牛、 そして豚の放牧を見る。
きっとイベリコ豚だ。
サービスステーションで豚の足の燻製が
ずらりとぶら下がっているのを見る。
さすがに日本ではみられない。 圧巻!
ハマナスにいた白い花が満開のなだらかな丘が続く。(何十キロも)
お昼は レブラの街で豚肉とあさりのトマト煮。
ここでも大量のポテトが。
食事のときはポテトが必ず出てくる。 う~ん ヨーロッパ。
そして シントラ王宮 ポルトガル王家の夏の避暑地だ。
ここには天正遣欧少年使節団も訪れており、
ここの台所で作ったものを食べた記録があるようです。
私たちはユーラシア大陸最西端の
ロカ岬(沢山の松葉菊が自生していた。)をまわり、
(初めて大西洋を見た。)
リスボンへ向かった。
(この少年たち4人(13歳~14歳)は1582年(天正10年)
九州のキリシタン大名 大友・大村・有馬の
名代として信長の許可をもらい、 船を出港、
マカオに滞在中、信長は死んだ。
その後、 2年半の時を経て
シントラ、 マドリッドへ着いた。
そして スペイン、ポルトガル国王とローマ教皇に謁見、
8年後に帰国したが その時日本(秀吉)は
キリスト教を弾圧し始めていた。 そして鎖国へ。
時代に翻弄された彼ら、 時は移っていく・・・
うぅーん、 歴史を知ると 面白いけれど悲しすぎる。)