当たり役と外れ役 があるのはピアノの世界もそうです。弾き手にとって相性の合う
曲、作曲家というのはあり、それは、好きな曲や作曲家と=な時と違う時があります。
高校の時音楽室で、ピアノを弾く女の子の前で私がドビュッシーのアラベスクを弾くと、
「☆ちゃんはドビュッシーが合ってる」と言われたことがあります。ピアノの先生も、
聴衆の前でドビュッシーを弾いて戻ってきた私を、舞台袖の緞帳の所でご満悦な顔と
言葉で迎えました。あんな顔、普段決して見せないのですが。
先生にとって、人前で安心して私に弾かせられるのはドビュッシーのようでした。
ドビュッシーは、それまでは情感の豊かさ、メロドラマ性が音楽のあり方だったのから、
人間的なものを排した音楽のあり方を提示した先駆のような存在です。
「非人間性の芸術」とオルテガは表現していました。たしかにドビュッシーの音楽は、
人間の情感ではなく風景を思い描かせるもので、メロドラマ的な作品はあまり知らないです。
私はショパンもリストもベートーベンもチャイコフスキーも、その他色々な作曲家が好きですが
ドビュッシーの不思議な世界は大好きです。 ベルガマスク組曲 スペイン人ジャーナリストの宿泊
その先生は、私に人前で弾かせる曲には、私と相性のいい曲を選んでいました。
ひと夏だけ関わった別の先生が私に、ある作曲家の曲を選曲しました。(忘れてしまいました)
正直、すごくいやでした。全然燃えない…
※ただのイメージ
「これは私が弾くのは違う感じがする」という内容のことを呟いたら、先生は
「自分のものじゃない感じがする曲に真摯に向き合うことで、いい演奏が醸造されることがある。
最初から相性の合う弾き手が弾くよりも。」と言いました。わかる気もして印象に残っています。
結局、夏が終わって私は去り、その曲に挑むのはぽしゃってしまい、曲自体を思い出せません。
当たり役は奇跡を起こすと書いたけど、自分のものじゃない斜めの役も奇跡を起こすことがある
という話を書きたくなったのは、”世界は簡単にわかりやすく説明できるものではなく、
深遠で複雑である”と言って年下の先生が陰謀論を批判しているのを聴いたからです。