なにかを作る時などに、「後からこうすればいい」と言って、今の工程の杜撰さ、
粗さ、いい加減さの処理を後からなす工程に委ねることに、私は全く賛成しない。
例えば、「これは下地材で、その上から化粧材を被せるから下地材の色や材質など
気にしなくていい」という単純で短絡的な考えなどである。気にしている私に
「これで仕上がりではないから。どうせこの上からこれを施すから。わかった?」と
私が勘違いしている子どもかのようになだめ諭された。
そんなことは自明の上で言っている。
差してくる光の強度や角度によって、下地材の色が透けて、表面の化粧材の色が影響を受けて
しまうとか、化粧材を張る技術が低かったら、あるいは有能な施工者がやったとしても
なんらかの不可抗力のせいで繋ぎ目とかから下地材が見えるとか、そういう可能性を思慮している。
厚さ2mmの白い化粧材の下に真っ黒な下地を一面に張って、いつ何時も何も影響しないという確信はどこから得ているのか。
下地材の色や材質は、最終形に背反することなく准ずるものでなければならない。
「後からこうするから大丈夫」と言う人は、後からする工程が万全であると前提している。
それが万全、完璧になされるとなぜ思うのか。そうでない場合、前工程のまずさは
次の工程に確実に影響する。また、今目の前の工程すら万全にせずいい加減にするのに、
後工程を万全になされると前提するのはどういう理だろうか。
今現在のまずさのつけを後に回せばいいと気軽に言う人達は、その後工程が万全だと
信じて疑わない。人によってなされることが万全、完璧であると前提するべきではない。
そうでない可能性は無数にあり、むしろ万全になされる可能性の方こそ極めて低いのだから。
したがって、今の工程に臨む時、最終形に対して出来うる最良のことを行わなければならない。
不確実さの想定があれば、おのずとそういう態度になる。
後工程で起きてしまった不全が、前工程で最良にしていたおかげで痛手は最小にとどめられ救済されるということは無視されて、なぜか後が前をカバーするという一方向の発想だけがされる。
「後からこうするから、大丈夫」となだめ諭されたが、私の考えていたことは的中した。
つけを後に回さずに、今の工程――すべての現工程――で、最終形に准じて背反しない最良のことを
着実に行うことは最終的には、最も労少なくて良いものを作るやり方だと私は考える。
「後からこうすればいい」と言って、なぜか今目の前のことには最善を尽くさずつけを後に回す
態度は、最終的には、面倒なことを招くか、あるいは粗悪なものを出来上がらせるかである。