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媒体としての「能力」

2020-10-13 | 社会・政治のこと

反・能力主義のジレンマの続き。

この記事は、どこかストンとしない気持ちのまま書きました。続きがちょっとわかりました。

 

能力とは、1人の人間が完結して発揮するものではなく、その人が出会った人やものから

繋がって、できるもの。

例えば、ダウン症の人と接した時や

健常者が1分で済ますことを1時間かけて話し合う障害者の集まりに参加した時や

隣町に行って帰るだけで旅行のように新鮮に楽しみ刺激を受けいちいち反応するおばちゃん達と

同行した時や、ピアノをあまり触ったことがない子どもが弾く朝露のようなピアノの音を聴いた時や

他の人達は疑問をもたずすんなり適応するのに激しく抵抗する人を見た時

そういう出会い、体験が繋がって1人の人間の視点、能力、感性は育てられる。

 

もし誰かが社会的に大きな「偉業」をしたとして、それは彼ひとりの能力ではなく

彼が見てきた色んなものを映し出したものである。かれは主体ではなく媒体になっている。

その偉業を直接したのがその人であっても、それには多くの人やものが関わっている。

それは、サポートとしたとか協賛支援したとか、パスを渡したとかでもなくて

社会的に「無能」「阿呆」「でくのぼう」「ろくでなし」「反抗的」「問題児」「秩序を乱す」

「頭が悪い」「生産性がない」「効率が悪い」「役に立たない」とされる人達との出会いが、

その「偉業」に大きく寄与したりする。

 

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    続く

 

 

      

 

 

(関連: 自己決定権という罠

 

 

 



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