最高に気に入っている美しく青きドナウのCDを大きめのスピーカーで聴いていて、はっと思ったことがあります。
音楽の解釈、表現は本当に盤によって様々に違いますから、
フランツ・バウアー=トイスルの指揮とウィーン・フォルクスオーバー管弦楽団による
1983年のこの演奏がいいというのが勿論大きいですが
別の要因として、このCDの音質が昔のだからいいのではないかとも思ったんです。
1983年の演奏を収録したこのCDは、フィリップスの制作したフィリップス・クラシックスを原盤として1988年位に制作されました。
音質は、現在のものよりもずっとクリアさに欠け、こもったような、まろやかな音がします。
このドナウの曲が、諸楽器の音が鋭利に聴こえる音質よりも、このぐらいの音質と相性がいいのではないか。
またその解析度の粗さによって、想像力がかえって刺激され、”この演奏を聴くと緑濃きドナウ河の
荘厳な風景が鳥目線で、見たことあるくらい具体的で鮮明に見える”のではないか と。
同じ効果が、レコードではさらに強く得られる そのようなことを考えました。(関連記事:MDの音)
もっと高画質 もっと高音質といった、飽くなきテクノロジー競争が繰り広げられていますが、
カメラでも、私はそんな高画質を求めません。そんなに解像度高く映す必要はないです。
家に飾ってある、祖母と祖父が2人で写っている写真や
母のきょうだいやいとこたちが川辺で並んで立っている写真は白黒ですが、
当時の空気をよく伝える素敵な写真です。もっと高画質だったらとか、思いません。
証拠とかでない限り、写真のよさは解像度では決まらないのです。
時代の常識や流れと逆行する価値を見出せば、幸運がたくさん訪れます。
みんながポイしたもの、見向きもしないものが、自分にとっては非常に価値があり、それがタダとか安値で手に入りますから。
私はそういう時に、「やったー」と大満足します。