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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

昭和50年の“ほんやり”

2015-01-18 23:16:33 | 民俗学

 小正月も過ぎ、あとは二十日正月という時期ではあるが、かつてのように二十日を意識することも今はない。とはいうものの以前旧高遠町山室を訪れた際、この時期でも松が道祖神の脇に積まれていて、いわゆるどんど焼きが二十日正月を目処に行われているところもあったから、いまだ二十日を意識されている地域もあると思う。

 古い記録を紐解くと、昭和50年に行われた「ほんやり」についての感想のようなものがあった。子どものころであったからつたない文章なのだが(誤字脱字は訂正して)ここに再現しよう。

 

 本六ではどんど焼きとも言うが、「ほんやり」ともいう。まわりのなどで「どんど焼き」と言うようになったためこういう呼び名になった。このごろは小学校の児童会での行事として行われるようになって、学校の行事ということもあって、北信、中信地方から来た教師がいると、北信・中信方面で呼ばれている「どんど焼き」「どんどん焼き」「三九郎」などのうち、とくに「どんど焼き」が入りだし、小さな子どもはほとんど「どんど焼き」と呼ぶようになった。しかしもとからこの地にあった「ほんやり」という名も、年寄りの人たちからよく聞かれる。
 さて、呼び名はこれくらいにして、昭和50年1月14日に行われた本六のどんど焼きについて様子をここに書こう。
 前日またはその当日に繭玉といって、餅でひょうたん形をした物を作ると竹にさし、どんど焼きに備える。どんど焼きでは松飾りなど正月の飾り物がほとんど。松飾りなどは10日ごろ、早い人は飾りをはずす7日ごろにはどんど焼き場に持って行っておく。
 当日午後5時15分前に、松飾りを山のように積み立てた横で焚き火を始め、人が集まるのを待つ。人々はこの焚き火の煙に誘われて集まってくる。5時10分になると火をつけ出す。火が強火になり、松も燃えてしまうころになると、おきができ、人々はそのおきで先に述べた繭玉をおきであぶり焼く。
 子どもが多いが、小さい、昔からおとなも多く集まることから賑やかである。繭玉を焼いている時、おとなの人がミカンを配ってくれるのは子どもにとっては嬉しいこと。子どもだけではなくおとなにもミカンが配られると、おとなは子どもにそれを分けてくれたりしてたくさんになるとますます嬉しさが増す。
 火が弱火になり、繭玉を焼いてしまうと人々は家へ帰っていく。火を焚き始めて1時間ほとで人々はいなくなる。帰る時、松飾りの燃えかすを家に持ち帰り、屋根へ投げておくと厄除けになると言われるので持ち帰る。

 

 以上のようなものだった。ここでいう本六とは飯島町本郷にある集落である。「繭玉」と表記したが、かつては「蚕玉」と書いて「まゆだま」と読んでいたように記憶する。ミカンを配るのは、厄年の人たちが配るもので、当時はあまり意識していなかった。それは厄年のではなく児童会の役員の人たちが配ってくれるものもあったからだと思う。櫓のように細工することもなく、単純に積み上げて火をつけていたと記憶する。一時熱心な役員がいて高く円錐状に積み上げたときもあったが、やはりそんなときは松飾りだけでは形にならないため、山から松を伐ってきて増量していた。この記述からも解るように、形にこだわっていたこともなく、単純に正月飾りを焼くために行っていた、という印象である。


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