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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

豊丘村を歩く③

2013-11-02 23:38:05 | 歴史から学ぶ

豊丘村を歩く②より

 

 豊丘村に限らず、伊那谷には山道三十三番(所)観音というものがあちこちに現存する。三十三番(所)観音は、「観世音菩薩は三十三種の変化身でこの世に示現すると『法華経普門品』(『観音経』)に説かれているところから、観世音菩薩を本尊として祀る三十三カ寺を巡礼する者は功徳が得られると信じられた」ことにより、各地に三十三カ寺の巡礼地が作られたことに始まる。遠方の寺を巡拝しなくても、誰でも身近なところでそれが叶うとして設けられたものが、三十三番(所)観音である。例えば一定の地域をめぐる三十三番観音も信濃三十三番という県域を巡るものから、諏訪・伊那三十三番といったさらに狭い範囲を巡るもの、もっと狭いエリアでそれを構成するものまでさまざまである。その旧きゅくとも言えるのは、一つの石に三十三体を刻み込んだ一石三十三所観音で、伊那谷にもそんな事例が見られる。

 さて三十三体全てが揃って残っている例はそれほどないが、中には散在しているためにその存在がはっきりしなくなることを恐れ、一箇所にまとめられている例も多い。豊丘村にはこうした山道三十三番観音が堀越に2箇所、長沢、佐原野田平、福島の5箇所に現存する。長沢集落の入り口にあたるかいもち平に長沢山道三十三番観音がまとめられている。もともとは山田原から始まりかいもち平に出、長沢集落を経て掘立までの道に配置されていたものなのだが、昭和46年に編まれた『村の石神と石仏』には各所に配置されている様が描かれている。ようは当時はまだ山道に配置されていたもので、その後に一箇所にまとめられたもののようだ。文化12年(1815)年に建てられたもののようで、その主旨は馬の災難を除き山道での安全を祈り建てられたもの、と説明板には書かれている。一箇所にまとめられてしまったが故、味気ないものに映るが『村の石神と石仏』に描かれた当時の様を映したスケッチは、何度見ても風情がある。絵とともに添えられているコメントがいい。「長沢の人たちは新しく馬を引いて山へ入る時には、中折四つ切れの紙へおせん米と田作二本とをひねって山の神と山道の観音様へしんぜて行った」、あるいは「十九番 もと集乳所の処にあったもの 今は合いのつるねの岩すにある」といったものが添えられている。十九番のコメントを読んで思うのは、かつても祀られているところが一定せず、動かされていたのではないかと推察される。


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