Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

違和感のある光景

2022-06-02 23:53:30 | 民俗学

 何でも「民俗学」になるという島村恭則氏は『みんなの民俗学』(2020年 平凡社新書)の中のコラムで「初詣で並ぶ必要はあるのか?」と言う。冒頭次のように記している。

 ここ一〇年ほど、気になっていることがある。正月、初詣のとき、神社にできる行列のことだ。あちこちの神社で、参拝する人たちが二列に並んで長い行列をつくっている。私は、これに違和感を持っている。

ようは、かつてはこのようにきっちり並んで参拝することはなかったのではないか、と言う。列を作ることで、せっかくの広い空間が列だけ延々と繋がって、その周囲はすっかり空間と化す。当たり前のことなのだが、あえて列を作ることで、もしかしたら密度は下がっていく。

神社の「正しい」参拝の仕方が本やネット、テレビなどで喧伝されるようになったが、そうしたものの中に、「きちんと並んで順番に参拝しましょう」とか、「参拝終了後、鳥居をくぐる際には一度振り返って本殿に向かって最敬礼するようにしましょう」 などと啓蒙するものが含まれていることがある。「二列だけの長い行列」がつくられる要因の一つは、こうした「礼儀正しさの強調」 に求められる

と言うのだ。もしこの日記を読まれている人も、近ごろの神社参拝を思う描いてもらうとに気が付くことがあるだろう。意外に若い人たちがずいぶん礼儀正しいのだ。鳥居を入る際に敬礼すれば、帰る際にもそこで敬礼する。年輩の、それもきちんとしていそうな方がされるのはわかるが、一般の参拝者がこんなに礼儀正しかったのか、そう思う。これも違和感と言えば違和感で、思わず「自分もしなければ」などと思った人は少なくないのでは。

 さらに島村氏は「もう一つの要因として考えられるのは、そもそも何の疑問も抱かずに、左右に空間的な余裕があってもそこに列があれば列の最後尾に並ぶという行動だ」と言う。よく日本人は「礼儀正しい」と言われるが、無駄な行動原理のようなものが備わってしまっているようにも思う。

私はこの行動を頭ごなしに非難するつもりはない。とはいえ、昔の実態を知っている者としては、「列をつくらなければならない特段の理由がないならば、どんどん前に進んでいって好きなように参拝してよい」 ということを、ここで強調しておきたいと思う。

と島村氏は列にこだわって参拝するのではなく、「どんどん前に進んで…」と促している。そういえば、と思い出すのは先日の同僚たち4人で参拝した善光寺のこと。やはり回向柱を触るには「列に並ばざるを得ない」。それは参拝と違って「柱をさわる」には順番を待たなければならないという「常識」があるからだ。しかし、参拝となればちょっと違う。場合によっては、あまりに混雑していれば拝殿の真ん中に行って拝まなければならないということはない。遠くだって良いこと。もっといえば境内に入っていれば神域であり、参拝した実績になるだろう。近ごろは「御朱印」というやつがあって、参拝したら御朱印をもらわないと「証明にならない」と勘違いしている人も多いが、形にこだわりすぎていないか、と思ったりする。日本にはたくさんの神様があふれんばかりに存在する。

 島村氏はコラムの最後にこう記している。

柳田国男は、「当たり前だから」「そういうものだから」「決まっていることだから」「権威ある人が言ったから」といって、自分の頭で考えずに何かに従ってしまうことを 「事大主義」(大勢順応主義)と呼んで批判した。そして、民俗学的な世相観察や自己内省によって、「事大主義」から脱却できると述べた。
 柳田だったら、「二列だけの長い行列」を見て、「特段の事情がないなら、それは不要である」と言ったに違いない。


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