Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

大岡上中山のセイゾーボー

2019-03-22 23:18:31 | 民俗学

大岡日方のセイゾーボーより

 

 昨日の例会の午後は、同じ旧大岡村の上中山のセーゾーボーを訪れた。おおよそ午後1時からということだったが、集会施設に集まられてブルーシートが敷かれると、すぐに集まった人たちで藁ないが始まった。女性も含めて10人ほどの方たちは、ブルーシートの周囲に円座となって盛んに藁ないを始める。皆がみな縄をなうのは、人形を縛るための縄である。縄ないがおおよそになると、二手に分かれて人形作りとなる。芯棒とする棒に藁束を頭で折り返すように巻きつけ、頭が丸くなるようにいかにも人形の頭風に縛り付ける。その直径は手のひらほどのもの。頭の形状が出来上がると、十字に次の芯棒を縛り、そこにも縦の芯棒側に藁の元になるように重ねて縛り付けていく。これが腕となる。藁先、いわゆる穂先は5本の指を意識して5つに分けて縛りあげていく。十字の下側にも胴体側に藁の元を縛り、下に穂先がくるようにすると、二つに分けて縛って足2本になるようにする。和紙に「へのへのもへじ」が書かれ、頭に藁で縛りつけられると、いよいよわら人形らしくなる。最後に男性を象って大根が足の付け根に付けられ、もう1体は女性を象って人参が付けられる。上中山では男女2体の人形が作られる。

 おおよそ人形が完成したところでわたしはお暇することになったが、細井雄次郎氏によると、40年以上前まではおとなが主体の行事だったという。その後子ども主体に移ったが、子どもが少なくなって再びおとなが主体の行事になっているようだ。細井氏が『長野県民俗の会会報』29号に報告した際の調査時は、男のシンボルはゴボウだったようだが、今年は大根のように見えたが、よく確認しなかった。細井氏によると、かつて調査した際にはシンボルをつけるのを止めていたようだが、調査を機にかつてのようにシンボルを付けるようになって、いまもってそれを継続しているという。シンボルをつけなかった時は、男女の区別を顔でしたようで、男は「へのへのもへじ」、女はそれを反転させた鏡文字のようだったが、今は顔は男女同じである。人形が出来上がると、鉦を叩きながら庚申場まで行き、人形を立てる。かつては庚申場で数珠を回したという。さらに細井氏によると、この行事を「オコーシン様にお参りに行く」と言うらしく、人形のことを「厄神様」と呼んでいるという。


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