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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

長野県の道祖神碑④

2018-08-24 23:26:55 | 民俗学

 長野県の道祖神碑③より

 

 

 田中英雄氏は「石祠型墓石内の双体仏に僧形双体道祖神の祖型をみる」(『日本の石仏』159 2010.10.11発行 日本石仏協会)に発表されている。いわゆる双体道祖神の握手・祝言・性愛の表現をされた夫婦をあしらった道祖神は、江戸中期以降に多く造立されるようになったもので、それ以前の初期の双体像は男女の区別のつかない、僧形の双神であった。それらを戦国末期から近世初頭に造立された石造物からその祖型を探そうとしたのが本稿である。

 田中氏によると、江戸時代初頭の50年間に、僧形双体道祖神に先行して造立された石造物があったという。それは墓石であり、石祠内に納められた2体の石造物は夫婦を表していたもので、元禄末期までこうした石祠が墓石として建立されていたらしい。それら地域については、関東甲信を中心にした地域に顕著に現れているという。さらに、石祠内石像の表現方法に着目し、直線的に彫られた目は、後に僧形の双体道祖神が建立された地域と一致しており、意図的なものと捉えられている。そしてそれら地域が、武田に與した領主・地侍がいた土地と重なると指摘する。田中氏が示された石祠型墓石造立地域と、戦国末期甲斐武田領を図示した図をみると、まさにそれはほぼ一致した範囲となり、とりわけ長野県内では南信から東信地域にそれは該当する。

 さて、長野県の道祖神碑③でも示した通り、石祠型道祖神の分布は、南は上伊那北部から、諏訪、上田までの地域に加えて、北信が加わる。図から捉える限り、諏訪地域に集中しているものの、長野市や中信の大町(といっても平成の合併で編入された八坂村や美麻村)あたりまで分布域が示されている。これら地域のうち、石祠内に双体像が納められている地域は、確かに田中氏の指摘する地域にあたるのだろうが、たとえば飯山市常磐戸狩の石祠型道祖神にも、双体像が納められており、意外に多くの石祠型道祖神が造立されている北信域とその周辺の具体的像容を確認してみる必要もある。

 県内の石祠型道祖神の建立年代を表したグラフを作ってみた。年銘の刻まれた石祠型道祖神の総数が、そもそも県内に76基しかないなかでの検討なので、はっきりしたことは言えないが、双体道祖神の建立に先行して石祠型が登場してきていることは事実である。そうした中、最も造立された時代は1700年代ということはわかる。田中氏が指摘するように、墓石に関しては石造物の調査対象から外される例が多く、墓石から推定する資料は少ないようだ。とりわけ石祠型の造立例の多い地域で、照査してみる価値はありそうだ。

続く


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