昨日「残念なこと」を記した。
思い起こすと、日ごろ現場に出た際に、気になれば「立ち止まる」を始めたのはこの日記を始めてからのような気がする。2005年から始めているからもう半年もすると17年になる。もちろん仕事第一で、それもこなすこと第一と考えていたから、そんな余裕がなかったのも事実だが、こうして日々を記録することで、その題材を常に意識するようになったことも確かだ。これもまた道具によるところが大きい。
けして以前から記録に対する意識が低かったわけではない。今でこそデジタル時代だから何でも自動的に記録される。コンデジで写真を撮れば、撮影した日はもちろん時間も記録され、場合によっては位置情報も記録される。フイルム時代は撮影した機械はもちろん、F値だのシャッター速度だの、記録しようとすればみなメモしておかなければならなかった。今はみんな自動的に記録される。とりわけ祭りや行事の写真を撮りに行っていた若いころ、撮影日時はもちろんだが撮影時間を記録したいという思いで、いわゆるデータパックをオプションで装填した。昨年あるいは今年日記に記した昭和61年や62年は、まだデータパックを装填していない時代だったから、時間記録はされていない。データパックといっても、フイルムのコマ間にそれが記録されるもので、情報量としてはそれだけ。今のような多様な記録ではない。しかし、例えばこの舞は何時に始まったものなのか、という際にはフイルムに記録された時間でそれを後から確認することができた。そう考えてデータを記録するようになったのはF3を使うようになってからだ。正確な時間を知るためには必須の道具ではあったが、実際のところそのデータを利用した報告をしたことはただの一度もない。自己満足かもしれないが、後に記憶をたどる際の参考にしたいという願いだった。同じような行動は、わたしにはほかにもあった。たとえばコレクションもそうだ。どうでもよいゴミのようなものをコレクションした背景には「記録」があった。すでに捨ててしまったものも多いが、「いつか」と思いながらコレクションを続けた。例えば書庫の棚にDVDがたくさん保存してあるが、大容量ハードディスクが容易に保存できなかった時代には、記録媒体としてのDVDは当たり前に存在した。そしていつかまた「見るときが・・・」と思いながら保存したものだ。しかし、今思うと「こんな大量なもの二度と見ることはない」などと思ったりするが、意外にも見る機会が・・・。
車が古くなったこともあるが、近ごろ車のオーディオ機器が思わしくない。近ごろ、ではなくもうずいぶん前からではあるが。テレビ選択ができなかったり、最近はラジオ選択もできなくて、仕方なくCD(DVD)メディアドライブを使うしかなくなった。そこで書棚にあったDVDを見るようになった。もちろん通勤時に視聴するのだが、ここ数ヶ月でかなりの枚数を視聴した。裏を返せば通勤時間は「長い」ということなのかもしれない。短ければこうした選択はなかっただろう。
記録する、ということが無駄なようでもどこかで取り返せれば「由」レベルで、とりあえず保存しておく。わたしにはそんなデータが、まだまだいっぱいあるように思うのだが、どこにあるかも課題のひとつである。そういう意味では「キーワード」が大切な時代でもある。この日記もあまりにもデータが多くなりすぎて、探し出すワードが思いつかない。あるいはワードに対する検索数が多くて、目的地まですぐにたどり着けないことも。この便利さを使い切れていない人が自分を含め、大勢いるのだろう。
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