先日「高遠町山室の獅子舞へ」を記した。その獅子舞を見たいと思い、元旦早々家を出て山室の那木沢へ向かった。
山室は旧三義村になる。昭和31年に山向こうの長藤村とともに高遠町に合併して消滅した村だが、山室川沿いに下ると旧長谷村の非持に出るからかつての行政区域から捉えると「長谷の奥」という印象もある。ただわたしがこの地域に初めて入った際には、小豆坂トンネルをくぐって入ったから、わたし的には「長藤の奥」という印象が残る。このトンネルの開通は、まさに高遠町の一員になる証のようなものだったのではないだろうか。しかし、現在は非持からの道が整備されて、山室へ小豆坂トンネルを経て入るよりも、非持経由で入るのが一般的なのだろう。高遠町時代の印象では、ほぼ小豆坂トンネル経由が当たり前だった。
「三義」というように、三つの村が合併して明治22年にできた村。伊那から向かって最も手前が山室、次いで荊口、奥に芝平があるが、過去にも触れているが、芝平は昭和57年に集団移住した村である。荊口にも集団移住した集落があり、旧三義村では山室が主たる現在に残る集落ともいえる。旧長谷村の非持山から山室に入ると、最初の集落が原である。その段丘下山室川沿いに川辺の集落があり、宮沢川を渡ると新井である。この新井から宮沢川をさかのぼると宮沢集落があり、新井の集落につながるように久保集落がある。久保は遠照寺がある集落で山室の中心ともいえる。久保の北隣が今回訪ねた那木沢であり、その北隣、山室では最も北にあたる集落が宮原である。以上七つの集落で構成されているが、昔はこれら集落を「部落」と呼んだようだが、今は「組」と呼んでいる。獅子舞はその那木沢組集会所で午前10時に始まった。
鬣は和紙で作られている
集会所での舞
道祖神の前で舞う
那木沢の集落
現在15戸ほどという集落を「組」とは言うものの、それが隣組というわけではなく、組の内に三つの隣組があるという。雌の獅子と言われる由縁は、持ち物が幣束だからのよう。この幣束については、語りの「身は三尺の斧さ持て」から「斧」というらしいが、真意ははっきりしない。しばらく前に太鼓の皮を換えた際に、太鼓の内側に「文政」という文字があったことから、その時代には行われていたよう。現在舞に使用されている幌は三代目と言われ、古い幌が残されているが、それは初代と二代目をつなぎ合わせて修復したもののよう。
獅子舞はいわゆる悪魔祓いであって、東信地域に残る正月の獅子舞と通じる。語りは次のようなもの。
身は三尺の斧さ持て悪魔をはらう
それから泰平楽よとあらたまるねー
土手の蛙のなくのがあわれだとーね
伊勢の国では神楽を舞いますとーねー
チッチクタッチク太郎兵衛さんがねんねんだまへへたばりこんだとーねー
牛の角へ蜂が刺しても痛くも痒くも何ともないとおねー
かつては戸ごと舞をしたというが、現在は集落上部の集会所で舞うと、集落を下って行き、道祖神の前で舞をして納めとなる。とくに道祖神とかかわりがあるという伝えはないが、舞い納めが道祖神というあたりに興味がわく。
少しの間途絶えていたというが、平成3年に復活して継続している。頭を担うのは今年組の総代さんだった原さんお一人のよう。幌を持ったりする役は移住者の方が担われていて、太鼓や笛も移住者の方にも伝えられていくのだろう。何より、移住者の方たちも一緒になって獅子舞が舞われていて、今日は女性のみなさんが集まって大釜に豚汁を作られていた。3分の1くらいは移住されてきた人たちで構成されていて、そうした家には子どもさんがいて、賑やかな新年会という印象であった。ほかのところに住まう者から見れば、「うらやましい」ような光景がそこには見えていた。
頭の後ろの鬣は、和紙を巻いたように細工されたものがたくさんつけられていて珍しいもの。幌がだいぶ傷んでいて更新されるというが、この和紙の細工は現在の形で細工するとずいぶん高額になるようで、少し簡易的なものに変えられるよう。集会所の舞が終わると、見ていた方たちからお捻りを飛んで、獅子舞では珍しい光景であった。
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