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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

生坂村万平の道祖神

2016-04-28 23:56:27 | 民俗学

 

 

 生坂村上生坂は村の中心部にあたる。犀川はこの上生坂を大きく蛇行して流れる。役場の上に生坂小学校があり、さらに上っていくと「万平」(まんだいら)という集落に至る。文字の通り、小学校から急坂を上ると意外なほどの平が開ける。集落東側の道端に石仏群がある。庚申塔3基のほか「二十三夜塔」や馬頭観音、そしてどうみてもその中心には祠に祀られた道祖神が祀られている。像向かって左側に「天明八申三月」と刻まれており、1788年造立のもの。石仏群の中では道祖神の隣に建つ青面金剛が「元文五庚申年」に建てられたもので、最も古い。1740年と道祖神よりは48年遡ることになる。これら石仏郡は村の文化財に指定されていて、説明板には「道祖神のやすの屋根は毎年正月に葺き替えられる」と書かれている。しかし、現在は木祠が新調されてそれほど間が経っていないようだったのて、近くで聞いてみた。説明板のように毎年やすで屋根を葺き替えていたのは一昨年までだったようで、昨年木祠を建てたという。その木祠の上にやすで屋根が覆われていたので、このやすの屋根はいつ葺かれたものかと聞くと、木祠を新調した昨年のことだという。木祠を造ったから屋根を葺く必要はなかったのかもしれないが、これまでの慣例をいきなりなくしてしまうのも気が引けたのだろうか。木祠にしたのは集落もお年寄りばかりになって毎年やすで葺き替えるのが大変だということで木祠にしたらしい。祠の中に藁で作った酒樽が奉納されている。奉納された方がいたからだということで、集落で毎年作るというわけではないらしい。

 やはりこのあたりでも正月の松飾り焼く行事をサンクローと呼ぶようだが、松飾りといってもそれほど立派なものを飾るわけではないようだ。やすで屋根を葺き替えたのは小正月ではなく、春先だったとお聞きした方は言われたが、正確に何時ということは聞けなかった。

 向かって右側の男神は盃を左手で持ち、左側の女神が右手で大きな徳利を持つ。顔の2倍もあろう高さの徳利だから、こんなに大きな徳利なら5合くらい入りそうだ。風化しそうな石質にも関わらず1700年代の道祖神がこれだけ維持されてきたということはやすで葺き替えられてきた覆い屋のお陰なのだろう。


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