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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

豊丘村を歩く⑩

2016-04-29 23:15:19 | 歴史から学ぶ

豊丘村を歩く⑨より

滝川公園より望む

 

 「豊丘村を歩く⑧」において、滝川にある滝川公園から望む天竜川について触れた。そこには天竜川に架かる万年橋が見え、その向こうに天竜川河原に広がる水田地帯が望めた。この天竜川沿岸の農地は「新田」と言われるように、後世に新たに開田されたところ。そこへ用水を供給するために造られたのが「間夫井」と言われる用水路だった。当初は図の①の位置に取水口が設けられたという。新田とはいえ延宝五年(1677)に水路が竣工したというから、すでに340年も前の話しだ。当時開削された間夫井は旧河野村分の新田を潤すものだつた。後に嘉永5年(1852)に河野中平の庄屋だった福井源蔵によって①から②まで隧道が掘られ取り入れ口が上げられた。理由は河床低下のせいだと言われる。この後、河床低下によって元の取水口から上流1300メートル近い位置まで取水口は移動していくのだ。これを順に並べてみると次のようになる。

①延宝5年(1677) 柿本吉兵衛による開田の取り入れ
②嘉永5年(1852) 福井源蔵による取り入れ口 現調節口
③明治35年(1902) 北之城下
④昭和21年(1946) 北之城北崖(河野3750番地下方)
⑤昭和22年(1947) 北之城北崖(河野3750番地下方)
⑥昭和24年(1949) 北之城北崖(河野3750番地下方)
⑦昭和30年(1955) 台城橋上(猿鼻)
⑧昭和44年(1969) 生田地積間沢川河口
(以上は①の取水口があったと思われる近くにある九頭竜権現碑脇の説明板より)


以上のような変遷であるが、『豊丘村誌』によると、万年橋下に明和年間に取水口を設けたとも記されているから、これ以外にも取水口があったようだ。①から⑥までが約400メートル。ここまで延伸するのに、272年。ところが⑥から⑧までは900メートル近くあるというのに所要20年。急激に河床低下が進んだとも捉えられる。河床低下によって旧河野村のみを潤していた間夫井は、名を竜東井と変えて現在は喬木村伊久間までの天竜河原を潤している。昭和13年7月の豪雨災害によってかつて天竜川からそれぞれ取水していた取り入れ口がすべて被災した。加えてこの時に河床低下が著しかったようで、県から示されたのは次の3案だったという。
1案 河野地積万年橋付近を取入れ口として喬木村伊久間を放流点とする。
2案 河野地積間夫井を利用延長する。
3案 河野地積八王子沖を取入れ口とする。
関係者で調整されたが結局河野村は従来通り間夫井を利用し、それより下流域は河野村八王子沖に取水口を設ける(これを竜東一貫水路と称した)こととし復旧はなされた。ところが昭和28年に再び両取水口が被災をした。その復旧工法として提案されたのが、⑦へ取水口を延伸し、間夫井と竜東一貫水路を統合するというもの。これが現在「竜東一貫水路」と呼ばれている水路の始まりとなったわけである。①と⑦は隧道で開けられたが、その上⑦から⑧間はヒューム管で施工された。これは昭和44年に竣工している。以後現在まで延伸されることなく至っている。

 とりわけこの延伸された部分は暗渠と隧道で構成されている。現在②と⑥には調整門や排泥用の門が設けられていてそこから隧道内に入ることはできるが、一般にはほとんど目に触れられることはない。目に触れられないということは認識が低下するのは言うまでもない。世の中には見えずに一般には認識されていない農業用水路はたくさん存在する。故にその存在価値が低く認識されるのは致し方ないのだが、それを消し去ることは簡単にはできないし、もちろん消し去って良いものではない。これらを維持していくことの大きさをいかに知らしめるか、問われるべく課題だが、まるで低温やけどを負ったような農村にはそれを解消する意欲も消えかけている。

続く


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