右に曲がろうとしたら対向車が見えていたので、車を停止させて待っている。後ろには何台かわたしが曲がるのを待って車が繋がる。ところが対向車もわたしが曲がって入ろうとしていた道に曲がるらしく近くまでやってきたら左折の指示をさせて曲がっていった。「なんだ、あんたも曲がるんだ」、そう独り言を発して少し苛立つ。珍しいことではない。右折や左折をしようとする場合、交差点または地点の30メートル手前で指示を出すなどということは習っていることだが、実際の道路上では相手にその意思を示す、という意図がある。したがって対向車も後続車もなく、周囲に誰もいないのなら方向指示を示さなくとも、なんら問題はないのが実際だ。もちろんそんな判断をしながら運転していると、いざという時に指示を出さない可能性もあるので、身体が自然に動くような習性はふだんから実践しないと身につかないものだ。とはいえ、常に計ったような行動をしないのが人間でもある。わたしはとりわけ右折する際には、対向車があると指示を出すのを意図的に早めることがよくある。というのも冒頭のような場面では、相手が左折することが早期にわかっていれば、相手が減速する間にこちらが右折する時間を稼げる可能性があるからだ。ようは「わたしも同じ道に入るつもり」と相手に知らせることで、対向車がもし右折できずに後続車を連ねているようなら渋滞を解消することもできるからだ。またその少しの間を利用して相手が右折しないとしても、「お先に」とばかり右折を誘導させてあげることもできる。ようはこちらの意図を前もって告げる手段になるというわけだ。常に「先に、先に」とばかり人の前に出たい人にはない意識かもしれないが、微妙な意図の表現によって渋滞は解消できるもの。
とりわけ交差点に限らず右折場面では渋滞が発生する。田舎であっても交差点で右折しようとしている車が対向車が繋がっていて曲がれないでいると、信号機が赤くなってしまうということはよくあること。右折車線がなければそれが繰り返されることによって「なんでこんなところで」みたいなところで渋滞が発生する。ふだんならすんなり通過できる交差点が、通勤時に延々と車が繋がって渋滞を引き起こすのはそんな理由だ。とりわけ誰もがたびたび経験するのが、信号が黄色になっても直進車が交差点に入ってきて、右折車が曲がれないというケース。田舎では右折車線もなければ右折専用の信号もないのはごく普通だ。これを繰り返すとまったく車が進まなくなる。右折車が曲がれるように信号に時間差をつける場合もよくあるが、前述したように黄色は「まだ進んでも良い」という意識があると、交差点内に入って右折しようとしていた車は曲がれなくなる。それでも曲がればすでに交差する道路の信号が青くなって車が入ってくる、なんていうことになる。この腹立たしい対向車に対してパッシングやクラクションどころか、無理に右折しようと突っ込む右折車も時にはいる。とりわけ右折車が交差点内で待っている際には、対向車線側を走っている車は黄色になったら絶対止まる、というのが相手に対する礼儀だ。もちろん右折車がいなくても止まるのが当たり前だが、いつも以上に意識するべきこと。加えて後続右折車が曲がれずに信号が赤になって止まっていたら、赤から青に変わったら急発進せずに、右折車を先に譲るくらいの気持ちが欲しいものだ。
事故防止のために自動運転システムの早期実現が叫ばれるが、機械が相手の意識をくみながら判断することができるだろうか。ようは相手の視線を察知して「お先に」ができるか、ということ。もしそこまで機械ができるようになったら、もはや人間は機械にも負けることになるのだろう。
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