もともと「民俗学」などというものを学んだわけでもなく、遠い位置から眺めているだけのわたしにとっては“年会”も縁遠いものだったわけであり、それを身近にさせたのは平成12年9月1日から10月1日にかけて開催された松本年会であった。とはいえその際の前後3年にわたって年会に参加させていただいたが、その後は足を運ぶこともなかった。興味をもってその周縁部でかかわってはいるが、現代の民俗学にあってはまったくの部外者のひとりである。それでも年会という場で“今”の民俗学を垣間見ることができるのだから、けして参加することが無意味ではない。とはいえこの「民俗学」という世界の頭脳の集りの場に接近しても、これまで考えていた無力感は何も変わらない。結局のところ学問として成立しているのかどうかも解からないほど、明確な領域を持たない世界だとあらためて意識させられる。しかし、そのいっぽうで領域外の人々には「民俗学」、いや「民俗」というものがかなり固定した概念で捉えられている印象があり、解かりやすい説明の言葉を早速出せないでいる。やはりわたし的には「単なる問題意識」すべてを「民俗」だと捉えるしかないと思ったりする。常々暮らしの中で葛藤している問題が、どう「民俗」で解きほぐせるか、そんな回答を求めてこれからも捉えていく、それがわたしのできることなのだろう。
「新潟へ・後編」で触れたように、今年の年会のテーマは「川」、その副題は「水をめぐる対立と融和」である。プレシンポで危惧したようなところには向かわず安堵したが、いずれにしても公開シンポジウムの内容からして「民俗」の領域が何なのかわかり難くくするものだし、発表内容をさらっと聞くとますます捉える側に高度な解釈が求められてくる。開催趣旨によれば、①新潟市が信濃川下流域にあるということ、②その流域には穀倉地帯が広がり、川を中心とした生活空間が形成されてきたことがこのテーマ設定の原点にあるという。そして川沿いの暮らしを示すものとして災害と洪水でもたらされる肥沃な土があるだろう。そうした川をめぐる対立と融和の事例から、今日的問題にもつながる視点を民俗学として示そうとしたわけである。この趣旨に沿って今回の発表者が掲げた題名は次のようなものである。
赤羽正春「水をめぐる伝承の象徴化-地域資源の水と鮭-」
加藤幸治「河川開発と水資源をめぐる対立と融和-“紀州流”工法から現代の大規模河川改修へ-」
金子祥之「水害を均衡化する仕組みとしての水利慣行-利根川・布鎌地域を事例として-」
湯川洋司「ダム建設計画をめぐる対立と融和-熊本県の川辺川ダムを例に-」
「新潟へ・後編」でも触れたように「これが民俗学会年会の発表内容なのか」と思われるようなものが並ぶ。しかしここから民俗学の視点を展開していく、というわけだが、発表の中にはその視点がいくつも散りばめられているわけではない。むしろその後の菅豊氏のコメントと、討論の中にそれはあったといえるが、「視点をあてはめていく」という作業だったように思う。参加者は200名ほどだろうか。わたしより上の世代と下の世代、半々くらいだろうか。若い世代の捉える「民俗」とはどんなものなのか、そんなことを思うテーマだった。
続く
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